ギリシャ的抒情詩
天気
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。
雨
南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。
太陽
カルモジインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあった。
ヒバリもゐないし、蛇も出ない。
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む。
少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた。
これらの詩は西脇順三郎の日本語による最初の詩集ambarva liaの中の3篇である。 この詩に初めて出会ったのは高校一年生の現代国語の教科書で、 今を遡ること半世紀以上も前のことである。 私の記憶に間違いがないならば、 少しくすんだオレンジ色の布クロスで装丁された手触りの気持ちの 良い本であった。
それまで西脇順三郎という名には馴染みがなかった。 初めてこれらの詩に触れた時に感じたものは何とも言えない解放感 である。 ひとつひとつの言葉がそれまで慣れ親しんできたそれとはまるで違 う別の輝きを持ったものとして立ち上ってきた。 新しい世界の扉が開いて、 自分がそこに招き入れられたように感じたのである。 私にとって本は子供の頃から身近なものであり、 様々な物語に親しんでいたが、 これらの詩は使い慣れた身近な日常の言葉が全く別の意味と色彩を 帯びてそこにあるということを実感させてくれた。
「(覆された)宝石のやうな朝」「 この静かな柔い女神の行列が私の舌をぬらした」「 少年は小川でドルフィンを捉えて笑つた」 このような詩句は当時の私の精神と身体の双方に働きかけた。 ちょうど思春期から青年期に差し掛かっていた私の官能の奥深い部 分を刺激し、呼び覚ました。自分では制御できない暗い鬱屈から 解き放され自由に呼吸できるようになった感覚、 それは生きる喜びに繋がるものであった。 日が昇り陽光が眩しい朝、それは私にとって(覆された)宝石のよ うな朝であり、 南風のもたらす雨は私の中にあった外界に対する警戒心を溶かして いった。 そしてドルフィンの青白い背中と初々しい少年の絡み合う鮮烈なイ メージ、詩は日常の言葉に新しい意味を与え、 そのもともと持っていた意味を大きく拡張する極めてクリエイティ ブなものであることを知ったのである。
そして数年前、改めてこの詩に再会する機会が訪れた。 当時の私は様々なストレスで心身共に消耗が激しかった。ある時、 散歩の途中でほんの些細な野ばらの棘が左の人差し指に刺さった。 免疫力が低下していたのか、 いくら抗生剤で治療してもその炎症は収まらず、半年後、 その左手の全体が腫れあがって手術以外の選択肢がなくなってしま った。入院し手術を受けて暫くすると、 一日二回の抗生剤の点滴治療が中心となり、 残りの時間には病院に隣接する図書館に時々抜け出しては気分転換 を図ることができた。 そしてその書架に西脇順三郎コレクションを見つけたのである。 彼の描いた絵が本の表紙を飾る白い美しい装丁の本であった。 早速、始めの一巻を手に取って、 再びあの懐かしい詩の数々を見出すことができたのである。 弱った心と体にたちまちその詩句は染み渡っていった。 ひとつひとつの細胞が静かに漲り、 生きる活力を取り戻していくことが実感された。 体の中で枯れかけていた命の泉が再び力強く蘇ってくる感覚を久し ぶりに味わうことができたのである。 南風がもたらす柔らかい雨を全身に浴びて心身がほどけていくよう な感覚、それを感じたことが回復への大きな一歩であった。