この本は最近、 初めて参加した読書会で取り上げられた課題図書であった。 同じ本を読んで語り合うという経験は新鮮で改めて学ぶことも多か った。
この本は副題にモンゴルの発展と伝統とあるように、13世紀から のモンゴル帝国の発展の影響と後世に残した遺産を検討することに よって、世界史を読み直そうとする試みである。 著者はモンゴル史の研究者で、 論理がいささか飛躍しているのではと感じた部分もあったが、 初めて知る事実も多く示唆に富んでいた。
著者はまず、歴史とは何かについて「 人間の住む世界を個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で時間と 空間の両方の軸に沿って把握し、叙述する営みとする」 と定義する。そして時間そのものは物理的であるが、 それに対する人間の態度は文化であり、時間の細かさ、 と奥行きの感覚は人間の集団ごとに、 文化ごとに非常に違うと指摘する。 そのため世界の人類に共通な歴史、 世界史を知ることは簡単なことではないとする。 この問題を解決するために著者が試みたのは、 インドやマヤ文明など歴史を持たない文明が数多くある中で、 独自の歴史文化を持っている文明として地中海、 中国文明を解明することである。
まず地中海文明について、歴史の父と呼ばれたヘロドトスの『 ヒストリアイ』について記述する。著者は、 ヘロドトスがペルシャ戦争の要因をギリシャ神話の中にあるヨーロ ッパとアジアの間に起こった4つの話に求めていることに関連して 、それは神話を歪曲したもので、 そこからアジアとヨーロッパを二分する対決の歴史観が生み出され て現在に至っていると主張する。 また地中海文明に大きな影響を与えた第二の要素として、紀元39 1年にローマの国教になったキリスト教を挙げる。 もともとはヤハウェ神とイスラエルの民との契約関係を主題とする 旧約聖書と、 新約聖書のなかにあるヨハネの黙示録の終末論と千年王国思想が、 ヘロドトス的な地中海文明の主流であったところの歴史はヨーロッ パとアジアの対決だという歴史観と併存すると、 世界は善と悪の原理の戦場であるという二元論とヨーロッパとアジ アの対立の図式が重なり合うと論じる。 そしてこのような対決の歴史観が今日の世界の紛争の背景にあると する。この部分については、 これからヘロドトスの著作を読んでみたいと思うが、 ヨーロッパとアジアの対立という側面については後世になるとこと はもう少し複雑で、 植民地となったアジアとその宗主国であったヨーロッパの国々との 経済発展の差というような様々な別の要因も影響しているのではな いかと思う。
ついで中国文明について、 地中海文明のヘロドトスに当たる歴史の父は『史記』 を叙述した司馬遷であるとする。 そして中国文明における歴史の性格は皇帝が統治する範囲が「 天下」すなわち世界であり、「天下」 だけが歴史の対象であると論ずる。 すなわち中国文明の歴史が皇帝の歴史であり、 永久に変わることのない「正統」の歴史であるということである。 しかし中央ユーラシア平原では6世紀以来、 遊牧帝国が成長を遂げ、とうとう13世紀になって元が華中、 華南の南宋を滅ぼす。著者は、 正史の枠組みにおさまらなかった中国世界に強い影響を与え続けた 中央ユーラシア世界の歴史を観なければ中国史は実態を反映しない ものとなると主張する。 そして最初の都市国家である夏は東南アジア系、 殷は北方の狩猟民、周は西方の遊牧民、北魏、隋、 唐は遊牧民である鮮卑が樹立した国であるという。そして紀元63 0年に唐の太宗を中央ユーラシアの遊牧部族が自分たちの共通の君 主に選出して天可汗の称号を贈ったことは長くは続かなかったが、 画期的な事件であるという。
私は漠然と中国の各王朝は漢民族が主体であると思い込んでいたの で虚を突かれた思いがした。 興味深い点は著者が中国人のアイデンティティについて語るところ である。皇帝に属する人、つまり皇帝の修める都市に住んで皇帝が制定した漢字を使う人が中国人で 、出身の種族には関係ないという。 ほぼ単一民族に近い日本人にはなかなか理解できない感覚である。
著者が遊牧民の生活を描写している部分はとても興味深い。 年間の降雨量が少ない草原では一か所に定住すると家畜が草を食べ 尽くして生活が成り立たないという。 そこで越冬のための冬営地と避暑のための夏営地が決まっていてそ の間を移動するのが通常のようだ。 一緒に遊牧するのはせいぜい数家族で大きな組織や社会の統合は必 要がないが、穀物や絹織物は彼らの生活に不可欠で、 双方の交易が農耕民との境界で行われる。 しかし中国に強力な統一帝国ができると国境貿易は皇帝の直轄とな って遊牧民に不利になり、それが彼らの団結の契機になるという。 1206年の春、 ケンテイ山脈近くの草原に多数の遊牧部族の代表者が会議を開き、 そこでテムジンを最高指導者に選出し、チンギス・ ハーンの称号を奉った。 これに伴って中央ユーラシアの遊牧民はキルギスとトルクメン人以 外はほとんどすべてがモンゴル人の社会組織に組み込まれ、 モンゴル人になったという。 遊牧王権は一度成立した王権を維持するためには君主は部下の遊牧 民の戦士に絶えず略奪の機会を与えるか、 財物を下賜続けてその支持を確保しなければ独立性の強い部下たち は他の君主に乗り換えてしまうので、 君主としては不断の征服戦争が必至であったという。
またモンゴル帝国の構造については匈奴帝国以来の遊牧王権的性格 を持つと言われ、ウルスと呼ばれる単位から成るとする。 ウルスは専属の遊牧民の集団とその家畜、 そして専属の定住民から財物や労働力を徴発する特権から成る。 創立者チンギス・ ハーンの時代から多くのウルスが存在して大ハーンでも直轄のウル スにしかその支配権は及ばなかったという。 そのようなモンゴル帝国を統合していたのはチンギス・ ハーンに対する人格崇拝と彼が天から受けた世界征服の神聖な使命 に対する信仰で、モンゴル帝国すなわちチンギス・ハーン、 それを「チンギス統原理」と呼ぶとのことである。
モンゴル帝国は西夏,ウイグル、金、カラ・ キタイ帝国を次々に征服していく。 西方ではカザフスタン東部まで進出し、その後、 イスラム世界の征服に挑む。ホラズム帝国を征服した後、 キプチャク草原に入り、ポーランド王国、ハンガリー王国、 オーストリアのウイナー・シュタットまで進出する。 ところがオゴデイ・ハーンの死去に伴いモンゴル軍は東経16度線 で退却する。現在のタタル共和国のタタル人、 カザフ共和国のカザフ人、 ウズベク共和国のウズベク人はすべてチンギス・ ハーンの長男のジョチのハーンと共に移住したモンゴル人の末裔で あるという。その後もモンゴルの侵略は西アジア、華中、 華南の中国に達し、東、北、中央、西のアジア、 東ヨーロッパの大陸部のほとんど全域が人類史始まって以来最大の 帝国に含まれていった。
そして遊牧民だけではなく、 ユーラシア大陸の定住民もモンゴル帝国の影響下に置かれ、 現在の国民の姿になったという。その例として、現在のインド人、 イラン人、中国人、ロシア人、 トルコ共和国のトルコ人を挙げている。これらの国の前史には、 インドのムガール帝国、サハーヴィー朝イラン、 モンゴル式の制度を継承した明朝の中国、 ロマノフ王朝以前のロシア、オスマントルコがあり、 これらはすべてモンゴル人の侵攻に伴って成立した政体である。
著者は歴史を持つ二大文明、地中海文明と中国文明はそれぞれ前5 世紀と前2世紀末に固有の歴史を生み出してから12世紀に至るま で互いに交流することなく独自に進展していたと叙述する。 それが13世紀のモンゴル帝国の出現によって、 中国文明はモンゴル文明に吞み込まれてしまい、 そのモンゴル文明は西に広がって地中海・ 西ヨーロッパ文明と直結することになった。 それにより二つの歴史文明は初めて接触し、 全ユーラシア大陸をおおう世界史が可能になったとする。
そして14世紀のモンゴル帝国の最盛期には人類最初の世界史を描 く歴史家が出現したとし、ラシード・ウディーンの名を挙げる。1 303年イラン高原のイル・ハーン・ ガザンはユダヤ人宰相ラシードに命じて宮廷所蔵のモンゴル語の由 緒正しい古文書に基づいてモンゴル帝国の歴史をペルシャ語で編纂 させたという。この『集史』は3巻からなり、 チンギス家を中心とした世界史で、第2巻にはモンゴル人以外の諸 国民の歴史も含まれ、旧約聖書のアダムから預言者に至る物語、 ムハンマドとその後継者のカリフたちのアラブ諸国、ペルシャ、 セルジュク帝国、ホラズム帝国、中国、フランク、 インドなどの諸国民の歴史が叙述されているという。 それもコーランの言葉であるアラビア語ではなく世俗的な言語であ るペルシャ語を選んだのはこれがイスラム世界の歴史ではなく、 モンゴル帝国を中心とする歴史であると指摘する。
同じ14世紀に元朝の支配圏のチベットで仏教の僧侶によってチベ ット語で仏教の立場から見た世界史である『フラーン・デブテル』 が書かれた。著者はインド、中国、 モンゴルを含めた仏教的な世界史を産み出したのはモンゴル帝国の 出現を契機としてチベット人が広い世界に触れて歴史が世界史であ るという意識に目覚めたことが大きいと指摘する。 視点を変えてモンゴル人自身が世界史をどう見ていたかに目を向け ると、『モンゴル秘史』 というモンゴル語で書かれた物語があるという。また『蒙古源流』 はチンギス・ハーンの子孫であるサガンという人が1662年にモ ンゴル語で歴史を書き、 マンジュ語から漢文に重訳されてこの題が付いているとのことであ る。そしてチンギス・ ハーンの家系はチベット王家とインドの王家を通じて、 人類最初の王まで遡る地上で最も高貴な血統であると主張する。
著者はこのような14世紀から17世紀のモンゴル帝国で世界史を 書いた歴史家たちの出身地はイラン高原、チベット、 モンゴル高原でこれまで歴史の著作の伝統のなかった地域であり、 ペルシャ、モンゴル語も歴史の言語ではなく、 地中海型や中国型の歴史の既成の枠に束縛されておらず、 当時の世界の実情を反映してモンゴル帝国のチンギス家の系譜を中 心としているとする。 ここに単一の世界史に到達する道のヒントとして中央ユーラシアの 草原の道を挙げ、 歴史のある二つの文明は中央ユーラシア草原の遊牧民が定住地帯へ の侵入を繰り返すことによって作り出されたとする。 ヨーロッパのインド・ ヨーロッパ語族はもともと中央ユーラシア平原からやってきて定住 した人々であり、 また中国以前の都市国家を支配した遊牧民や狩猟民もやはり中央ユ ーラシアから入って都市の住民となり中国を創った。 こうして二つの文明が成立したあと、 またしても中央ユーラシア草原からの遊牧民の侵入があり、 その度にそれぞれの文明の運命を変えた。 著者はその事情を以下のように説明する。 地中海世界の古代が終り、 西ヨーロッパ世界の中世が始まる契機になったのは、 文明の内部からの自律的な発展ではなく、 モンゴル高原から異動してきたフン人の活動がゲルマン人をローマ 領内に追い込んだ結果である。 中世から近代の移行にもモンゴル帝国の継承国家であるオスマント ルコの侵攻が関わっており、 大航海時代もそれまで知られていた世界の利権を大陸国家であるモ ンゴルとその継承国家が独占していたのに対抗して西ヨーロッパ人 が海洋帝国に活路を求めた結果であるとする。
また中国でも秦、漢時代の第一の中国滅亡の後、隋・ 唐時代の第二の中国は中央ユーラシアからやってきた鮮卑などの遊 牧民が建国した国家であった。 この第二の中国を圧倒し呑み込んだのは中央ユーラシアの一連の帝 国、トルコ、ウイグル、キタイ、金、モンゴルであった。 モンゴル帝国の支配下で中国は徹底的にモンゴル化して元、明、 清朝の第三の中国が形成されたとする。 このモンゴル化した中国が普通に言われる中国の伝統文化で、 中国の皇帝と見えるものは、実はチンギス-ハンを原型とする中央 ユーラシア型の遊牧君主の中国版で、 中国は中央ユーラシア世界の一部となってしまい、 この第三の中国の性格は現在の中華人民共和国に現れていると説明 している。
著者は結論として、 首尾一貫した世界史を叙述しようとするならば文明の内在的で自律 的な発展ではなく、歴史ある文明を創り出し、 変形させてきた中央ユーラシア草原からの外的な力に注目し、 それを軸として歴史を叙述することであると主張する。 この枠組みでは13世紀のモンゴル帝国成立までの時代は世界史以 前の時代として、各文明をそれぞれ独立に扱い、 モンゴル帝国以後だけを世界史の時代として単一の世界を扱うこと が適当で、この本がそうした叙述の最初の試みであるとする。 このような著者の視点は斬新なもので、 現代中国が一帯一路政策を掲げてユーラシアに自国のための一大広 域経済圏を創ろうとしていること、 旧ソ連に属していたカザフスタンやウズベキスタンが独自の道を模 索していることなどもこの文脈で見ると理解が可能になる。 私はこの本を読むことで、 現在の国際関係を以前よりも少し奥行きを持って眺めることができ るようになったと感じる。そして時間が許せば、 ヘロドトスの『ヒストリアイ』も手に取ってみたいと願っている。