樹 第14回


f:id:robinbird:20231123115833j:image

杉浦は知的トレーニングをつんでいる男らしく無駄のない言葉で自分の思いを伝えていた。しかし率直なもの言いの中に巧まずして女を誘うような小さなトラップが仕掛けてあるのかもしれないと侑子は感じていた。言葉がとぎれると杉浦はわずかな含羞をにじませながら言った。

「ちょっと難しい話になってしまいましたね。ここから少し抜け出して外の空気を吸いませんか」杉浦はもっていたカップをテーブルの上に静かに置いた。身のこなしは粗野なところがなく、彼もまた早川の妻と同じように貧しさとは無縁の育ちの良さを感じさせた。あまり貧しくても人は伸びることを妨げられるが、また裕福であっても他人に対する想像力が不足し歪んでしまうことがあることを侑子はこの年になれば理解していた。

 

アトリエのあるマンションの前はかなり広い都市公園になっていた。玄関から外に一歩を踏み出して空を見上げると、群青色の空にふんわりと綿菓子のような雲のかたまりがいくつも浮かんでいた。月は満月に近いようだったが、おぼろにかすんでいる。ところどころにある照明灯には様々なりん翅類が集まっていた。その中にひときわ大きく目を引く緑色の蛾がいる。「オオミズアオだ」と杉浦が驚いた声をあげた。侑子はこの蛾を初めて見たが、まずその大きさに圧倒された。そしてその夜の闇のなかで輝くような緑色にも。前の翅は三角に尖っている。翅を広げると十数センチにもなるのだろうか。後翅は後方にまるで尾のように伸びていた。そしてその四枚の翅の中央にある斑紋が夜の闇の中でひときわ際立っている。まるで櫛の歯のような触覚をアンテナのようにして夜の海を泳いでいるのだ。目を凝らして見ると夜露に濡れた土の表面をさまざまな生き物が蠢いている。空中には幾多の蛾や夜行性の昆虫が乱舞している。まるで土中から湧きだしてきたようだと侑子が呆然としていると、杉浦の手が侑子の肩に置かれたと思うとすばやく唇に軽く触れた。侑子がまるでオオミズアオが急襲したかと見まがうほどの一瞬の出来事だった。そっと彼の方を窺うと何事もなかったように落ち着いて周りの樹木の黒い影を見ているようであった。自分にはなにかしら物欲しそうにみえるところがあるのだろうかと侑子は当惑した。のこのこと男について外に出て来てしまった自分にも舌打ちしたくなるようないまいましさを感じていた。けれども同時にまだ異性を惹きつける力が残っていると認められたという思いに自尊心をくすぐられている自分を発見し複雑な気持ちになった。

 

  次回に続きます