2023-12-01から1ヶ月間の記事一覧
侑子はこの手紙を何度も読み返した。 あれから十年経った今も思い出したように取りだして眺めることが ある。 初めてこれを読んだ時は早川を失うということを現実感をもって捉 えることができなかった。 これからも彼は手の届くところにいるという根拠のない…
燐光群の演劇「わが友、第五福竜丸」を観た。 劇場に足を運んで演劇を観たのは本当に久しぶりであった。 現代の喫緊の課題である核を巡る問題、 それと深く繋がる第五福竜丸事件という重いテーマを演劇という芸 術がどのように表現するのかという点に大きな…
早川からの手紙が届いたのはそれから半年後のことである。 突然約束を守ることなく姿を消したことについてまず初めに謝って いた。そして妻があの日心筋梗塞で倒れたこと、 集中治療室に付き添っていたため連絡ができなかったことを詫びて いた。一命をとり…
木枯らしが数日前に吹いて、 紅葉したナンキンハゼの葉を一夜にして落葉させてしまった。 侑子は早川と待ち合わせをしていた。 先ほどから一時間ほど本を読みながら喫茶店で待っていたが彼は現 れなかった。携帯で連絡をとろうとしても通じることはなかった…
侑子は職場からの帰り道、橋の上から川面を時々眺めるのだった。 河川の水量を調節するために作られた堰の周辺を見ると、 白い鳥がいることに気がついた。コサギだ。 堰の周辺は段差になっており、 そこに集まる魚をめがけて狩りをしているらしく、 ときどき…
アトリエでの時間が終わると、 侑子は早川の車に乗せてもらって近くの丘陵地の雑木林を散策する ことがあった。 丘陵地からは今はもう役目を終えたテレビの受信塔や最近できたツ インタワーなどの高層の建物が望見できた。 「 東京タワーが朝鮮戦争の戦車の…
「ところで部長だった水谷君は元気にしているのかしら。時々彼のアトリエに行っているんでしょう。たしか彼が屠殺場に行って牛の頭を貰ってきてそれを煮詰めて頭蓋骨にして部室に持ってきたことがあったわ。皆でそれをテーマに油絵を描いた」 「あのことは良…
夕暮れが早くなっている。侑子は高校時代の友人の扶美とレストランで食事をしていた。金曜日の夜ということで、店内は活気に満ちている。一人になってから時々同じく夫が単身赴任の身軽な扶美と会うようになった。彼女の子供も独立しており、夫がいることを…
テレビから衛星放送の海外ニュースが流れている。侑子はそれを聞きながら朝食をとるのが習慣であった。前夜のうちに用意しておいた季節の野菜スープ、それにヨーグルトとパンをテーブルに用意し、時間があればそれに卵料理を付け加えることもあった。玉葱入…