痣 第15回


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このところ定期テストの採点などで忙しく沢木は美術室から足が遠 のいていた。授業後、 久しぶりに疲れた頭を癒そうと美術室に向かった。 ところがドアを開けようとしても鍵がかかっていることに気づいた 。しかしなんとなく中からは人の気配が感じられる。 今までにないことだったのでいぶかしく思い、 ドアの摺りガラスの縁から中を覗きこんだ。 すると女生徒が全裸になってイスの上に立っているのに気づいて思 わず息をのんだ。 はじめは後ろ向きになっているのでそれが誰なのかは分からなかっ た。周りの四、五人の生徒達は身じろぎするのも忘れ、 何かにつかれたように集中して鉛筆を動かしている。 まるでもうしばらくすると砂漠のなかに現出した蜃気楼が消えてし まうのではないかといった切迫感を感じさせる光景であった。 沢木は固唾を飲んで、その場に立ち尽くしていた。

しばらくするとそのモデルになっていた女生徒が突然体の向きを変 えた。それをみて沢木はあっと声にならない叫びをあげた。 それはもしやと思っていたあの典子であった。 むろん彼女の方では沢木が偶然とはいえ覗きみているなどとは夢に も思ってはいないであろう。 胸のふくらみは制服のなかにこのような豊かな丘がかくれていたの かと嘆息がでるようで瑞々しいピンクの蕾とともにあった。 そして下半身は腰のくびれの曲線がいかも優美で臀部は豊かであり 、柔らかい茂みはおもいのほか黒々と繁茂していた。

不思議なことに典子の顔には羞恥心のようなものはかけらほども見 受けられなかった。 ゆったりと寛いでまるで親しい人々の間で水浴びしているような雰 囲気で、他人に見られているといった緊張感はなかった。 まわりの生徒たちはこの与えられた時間を大切に生かさなければと いった切迫した気持ちに突き動かされているようであった。 呆然と眺めていた沢木はふと我に返ると、 ここで結果として盗み見していることになってしまったことに気づ き、足早に立ち去った。

 

それからしばらくの間、 沢木は美術室の前を通りかかることはあったが中には入らなかった 。廊下から眺めると、特別普段と変わることはなく、 相変らず数人の生徒が思い思いに鉛筆や絵筆を握っているのが見え た。授業中の典子にも特別な目立った変化はなかった。

時間が経過すると、 いつしか沢木は美術室のすりガラスの隙間からのぞき見た光景は幻 だったのではないかという思いにとらわれていった。 あれは自分の見た白昼夢だったのかもしれない。 それほど生徒達の姿は平穏な放課後のそれだったのである。

ある日、久しぶりに沢木は美術室を訪れた。「 先生はこの頃姿をみせなかったですね。」 一年生の男子生徒が声を掛けてきた。「 もうすぐ文化祭があるからその展示用に作品を完成させようと思っ ているんです。 スケッチを何枚か描いてあるからその中の気にいったものを絵にし ようとしているんですけれど」 と言いながら彼はスケッチブックをぱらぱらとめくり始めた。 何枚かの後に突然、裸体のスケッチが現れた。 それはまさしくあの時垣間見た典子の裸体画であった。 彼は一瞬ぎくっとなったように手を留めたが、 すぐに何気ない風を装いながらページを次々とめくっていった。 沢木はやはりあれは現実だったのかという思いに捉えられていた。

 

沢木はときどきその時みた男子生徒のデッサンを思い浮かべること となった。 輪郭はおずおずと震えるような繊細な線で描かれていたが、 体の質感や量感の表現には独特のものがあった。胸の突起、 臀部のふくよかさは思いがけないほど正確に捉えられていた。 彼は以前マチスピカソの素描をみたことがあったが、 ゆるぎない自信に満ちた単純にして的確な線が印象的であった。 しかしあの生徒のデッサンのおずおずとした調子の線描は思いがけ なくも彼の胸を打った。 一つ一つの線の不連続性は未知の領域に踏み込んでいくときの期待 と不安に満ちた彼の胸の鼓動を彷彿とさせるものであった。 典子の裸体を前にしてそれに圧倒されながらもなんとかその神秘に 踏み込もうと息を凝らして緊張しているものの存在を感じさせた。 彼は裸体を曝け出した典子に誠実に応えようと胸の動悸を感じなが らも真剣に鉛筆を走らせていたに違いない。

あれはあらかじめ計画されたものなのか、 それとも偶発的におこったものなのかは知る由もなかった。 しかし部員の生徒達が息詰まるような緊張感と真摯な態度で裸体の もつ神秘性に吸い寄せられるように向かい合っていたことは確かだ った。典子はその時、 羞恥心などはどこかに置き忘れていたに違いなかった。 この出来事の後、 部員たちの関係性は何か変化を来たしたのだろうか。彼ら、 特に男子生徒たちは典子に対して性的な感情を持つことはなかった のだろうか。なによりも当の典子本人はどう考えているのだろう。 彼女はどのようにしてあのような思い切った行動に出たのだろうか 。 授業でみる彼女はやはりなんら変わったところもなくクラスの生徒 たちの中に埋没しているかのように見えた。 しかし沢木は月一回の服装検査のときは典子のいるクラスには当た らないように周到に気を配った。 彼女の体には触れてはいけないと思わせるものが彼の中に芽生えて いた。なぜか彼女は聖なる存在であると感じられたのである。 様々な思いにとらわれ典子に対しては以前と同じようには振舞うこ とができなくなっていくようで、 沢木はそんな自分に少なからず驚きを感じていた。

 

 次回に続きます