痣 第11回


f:id:robinbird:20240408150657j:image

沢木は二年生の倫理社会の授業のなかで時々生徒に文章を書かせていた。レポートであったり感想文であったり形式は様々であった。二、三年生は成績順のクラス編成であったが、優秀なクラスでも紋切り型や、予定調和的な文章が多かった。几帳面な文字の後ろには空疎な空間が広がっている。彼らの文章を読んでいると船内ですでに冷凍された形のよいマグロが魚市場に整然と並んでいる場面を連想させられた。文章からその生徒の肉声らしきものが聞こえてこないだろうかと期待しながら読み進めていったが、裏切られることが多かった。一年生の時にはまだ幼いながらも自分の言葉で語ろうとする姿勢が見られたのかもしれないが、学年が進むと少数の生徒を除いてそれも消滅していた。皮肉なことに、こうした点から見ても、組織が個人に優先するというこの学校の教育方針はやはりある程度の成功をおさめているようであった。

 

 次回に続きます

 

六月から一学期の間、沢木は思い切って通り一遍の講義形式の授業ではなく、「ソクラテスの弁明」を教材として取り上げることにした。短い文章ながら西洋哲学の根幹をなす知性とはなにかという問題に迫ることができるのではと考えたからだ。教科書はギリシャから始まって現代にいたるまでの哲学と思想史の概略を学べるように編纂されていた。しかし、教師用の指導書に沿ってそれらしく解説しても生徒の頭や心に届くとは到底思えなかった。各クラスで生徒に尋ねたところ、この本を持っていたのは数人であった。それも他の家族の蔵書であることがほとんどで、読んだことのある生徒はほんの二、三人であった。そこで沢木は放課後の時間を利用してテキストを数編に分けて原本からコピーし、印刷、製本することにしたのである。

授業ではこの「ソクラテスの弁明」を冒頭の部分から数人の生徒に五分ぐらいずつ読ませることにした。家で読んで来いと言っても難しいであろうということがわかっていたからである。彼らに薄められた知識の残滓のようなものではなく本物の知性の言葉に触れてもらいたかったし、自分も彼らと一緒にそれを味わいたかった。例えて言えば同じミカンでもジュースになったそれではなく、実っているミカンを自分の手でもぎ取り、皮をむき口の中に放り込んで、その甘さだけではない酸味やほのかな苦み、そして皮を剥いたときに辺りの空気の中に立ち上る揮発性の香りをも自分で実感しながら味わってもらいたかった。

冒頭部分は「アテナイ人諸君、諸君が私の告発者の弁論からはたしていかなる印象をうけたか、それは私にはわからない。」という一文で始まっていた。指名された生徒は次々と読み継いでいった。初めは無表情な声で読んでいたが、読み進めるにつれて少しずつ集中していくことが感じられ、沢木も知らず知らずのうちに生徒の集中に影響を受けていった。

アテナイ人諸君」というソクラテスの呼びかけに答えるかのように生徒の心が動き出すのが感じられた。それは彼らの姿勢がいつの間にか背筋が伸び、前のめりになり、目の輝きが少しずつ増して首をかしげる様子も力強さを増していることに見て取れた。クラスの三分の一ほどの生徒はやはり関心がない様子で窓の外を眺めたり、教科書の陰に英語の単語帳や数学の問題集を隠していたが、それでも残りの生徒たちがまるでゼンマイを新たに巻かれた人形のように動き出したのをみて彼はあらためて作品の持つ力、二千年以上のときを経て人を動かすことのできる言葉の力を今更のように感じるのだった。