痣 第14回

 


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よく晴れ渡った空にはむくむくと湧きあがるような雲があったが、 盛夏に比べると形は小さかった。 時ならぬ先日の台風のおかげで校庭のイチョウの木から若いギンナ ンの実が落ちている。生徒の通学用の自転車に踏みつけられて、 黄色味がかった若草色の銀杏は果肉が破れ、 地面にべったりとへばりついている。 沢木はそのつぶれた銀杏を注意深く避けながら、 眩しい朝の光の中を校舎に向かって歩いて行った。

夏休みが終わり、きょうから新学期が始まった。 各教科の準備室はあったが、 そこに常駐することは管理上好ましくないと推奨されていなかった 。そのためほとんどの教員が職員室にいた。 美術室は理科室などの特別教室などが並ぶ二階の廊下の突き当たり にあり、学内のほかの場所からは少し離れた場所にある。 放課後は美術部の生徒が三々五々集まり、 思い思いに画架にむかっていた。 沢木は時々あまりにも清潔で息苦しい学校の雰囲気に気づまりを憶 えると自然に美術室に足が向いた。 部屋にはビーナスやシーザーなどのデッサン用の石膏像が並び、 画架も何本か立てかけられている。 壁には美術の教師の好みなのだろうか、 お行儀のよいヨーロッパの風景の複製が何枚か掛かっている。 いつ行っても五、 六人の生徒が絵筆をとって思い思いに水彩画を仕上げていた。 沢木はそのなかで典子という女生徒の絵に目を留めた。 沢木の授業のときにはほとんど発言したことのないどちらかという と目立たない生徒であった。

「これはどこを描いたものなの」

「夏休みにみんなで行った伊豆の海です」

「いろいろな色を繊細に使っているね。 太陽の光に煌めくような海面の様子が生き生きしているね。」

「そうですね。 海を表現するのはとても難しいけれどどうやってそれを表現しよう かと考えている時間は楽しいです」 彼女は教室にいる時とは打って変わってすこし上目使いではあった が嬉しそうな様子で答えた。 よく見ると彼女の左側の頬に小さな痣があった。 沢木はすぐにあの久米の痣を思い出したが、 彼女のそれは薄い桜色で面と向かうことがなければ見過ごしてしま うような小さなものであった。

沢木はあらためて典子の作品を眺めた。 水彩ではあるが五十号ほどの大きな作品であった。 それは子供の絵のもつ感じたままをダイナミックに表現する描き方 とは明らかに異なっていた。 年齢が進むにつれて少しずつ獲得された、 三次元のものを二次元に移し替える様々なテクニックを駆使しなが ら色彩の使い方にも初々しい躍動感を感じさせるものであった。 そこには彼女の文章から感じるあの固く凍りついたような鎧はなか った。現地に行って自分の眼で確かめ、 感じてスケッチしたものでなければ描くことのできない独自の視点 を感じさせる作品で、 画面からは磯の香りや浜辺に干してある魚の生臭い匂いが感じられ た。 沢木はその魚をめがけてカモメが襲いかかる様子が鳥の眼で捉えら れていることに驚嘆した。 魚をつかみ取るまさにその瞬間の鳥の前足の動きが構造的にもしっ かり捉えられている。 彼女は文章より絵で自分自身を表現する方が容易なのかもしれない 、 それとも典子は授業で提出する文章には意図してフィルターのよう なものをかけているのだろうかと彼は考えていた。

別の日に部屋をのぞくと彼らは椅子に座り、 互いをクロッキーで描いていた。すばやく鉛筆を走らせ、 瞬間の体の動きを掴みとろうと夢中になっているようであった。 沢木が部屋に入って行っても軽く会釈するだけで手を留めようとし なかったことからも彼らがいかに熱中しているかが感じ取れた。

 

 次回に続きます