この本は先日参加した読書会の課題図書であった。バルガス・ リョサは1936年生まれのペルーの小説家でジャーナリストでも ある。以前読んだことのある同じ著者の『緑の家』 は彼の初期の代表作であるが、今度のこの作品は1980年代に書 かれた中期の作品である。同じ本を読み、 相対して議論したり感想を述べあったりすることで新しく気付かさ れたことも多かった。
この物語は、 文明を捨てて未開の中で暮らすインディオの語り部となった一人の 青年を、彼の大学時代の友人で著者を思わせる 小説家の眼から描いたものである。構成は8章に分かれ3,5,7 章は語り部の独白という形をとっている。 読者は章が変わるごとに友人とその語り部の二人の間を行きつ戻り つする旅人になるのである。 それは語り部のいるアマゾンの密林とその友人の滞在するマドリー ド、パリ、フィレンツェ、リマなどの都市との往還の旅である。
語り部になったサウル・スラータスはこの世で最も醜い、 と同時に最も人当たりのよい青年であったと書かれている。 その様は「モップの毛のようにぼさぼさの赤毛で、 顔の右半分を完全に葡萄酢のような暗い紫色の痣があり、 それは耳も唇も鼻も所かまわず静脈の腫れのように広がっていた」 と描写されている。 そして東欧なまりのあるスペイン語を話すユダヤ教徒の父親と二人 、リマで暮らしていた。 彼は痣にコンプレックスを持っているような素振りを人前で見せるこ とはなかったが、キリスト教徒の多いリマで、 また異形の風貌故に社会の中に自分の帰属する場所を見つけられな いでいた。そのことが父親の死後、イスラエルに行くと騙り、 密林のなかに踏み入り,方々に分散して放浪を繰り返すマチゲンガ 族の語り部となっていく契機になったのは想像に難くない。 しかし、大学在学中に法学志望から人類学に選考を変え、 アマゾンの密林のフィールドワークに従事し将来を嘱望される人類 学研究者の道を歩み始めたかに見えたその男が、 スペイン留学も辞退し、行方をくらましてしまうのである。
物語は語り部の独白を奇数の章に挟んでいくが、 初めは誰がそれを語っているのかということは隠されており、 後半になるまで謎のままである。 友人はスラータスが行方不明になったのち、 偶然フィレンツェの画廊で見たアマゾンのマチゲンガ族の写真の中 に、 人々に囲まれて写っている明らかにインディオとは異なる体形の男 を見出し、彼が語り部になっていたことを確信する。
なぜ彼はこのような行動をとったのであろうか。 友人はこの彼の行動にみられる、 理性では計り知れない得体のしれない情熱を回心という言葉で表現 する。「彼の内部で発酵し、ついには神秘的陶酔、 おそらくは殉教者名簿の探求という性格」を帯びていたと。
たしかにそれは余人には到底理解できない。しかし、彼の行動、 それは私たちの中にある理性と本能のせめぎ合いと葛藤を示唆する ものではないだろうか。 人が理性のみで行動するならば文学は存在しない。 この矛盾に満ちた人間そのものを描くのが文学ならば、それゆえ、 わたしたちは彼の行動の是非を問うことはせず、 ただ彼と共に密林を放浪していくしかない。「 天の眼である太陽が人びとを温め, 禍も風も雨もなく女たちが清らかな子供を産んでいた」 そのような安らかで怒りもなかったマチゲンガ族の創世の神話を信 じ、それが「やがて太陽が落ち始め、 その太陽が落ちてしまわないように太陽を助けるために人々は放浪 の旅に出る」のである。放浪しながら暮らしていくために、 身軽になり、身の回りの物を捨てる。「 新しい命は放浪の中で生まれ、年寄りは放浪の中で死んでいった。 朝の光が差し込んでくる中を身体に触れて揺れる茂みをかき分けな がら、すでに一列になって歩いていた」
リョサは丁度この作品が書かれたと同じ頃出版された『20世紀の 知的な冒険』で山口昌男と対談しており、 その中で思想家のバタイユの人間の相対立する二つの衝動について の考え方に大きく影響を受けたと語っている。 本能や想像力を制御することによりこの生を享受し、 生命の存続を図っていくべきだと指示する理性的で社会的な心の動 きと、人間性を貫くにはたとえそれが自己の破壊、犠牲、死,生の 消滅に繋がろうとも本能に従い、 理性を否定することにより限界を超えていくべきだと指示するもう 一つの心の動き、 この二つの力のぶつかり合いの理論が今の我々の生きる時代や文化 をより的確に解明するものであると。
語り部は次のように語る。 旅をしているときに退屈したことはない、 悲しみを感じたこともない。耳を澄ましてみる。 すると地面が話し始める。思ってもみなかったもの、骨や棘、 石ころやかずら、生えてきた茎や葉、枝によじ登った鼠、 水の波紋が話す。私の元を去っていく魂の破片、 そして私を取り囲んでいるものたちの母親が私を訪ねてくる。 私には聞こえるようになり、 全てのものが何か話すことをもっているということが、 耳を澄まして分かったことだと。 私はそれを全部覚えてあなたたちに伝えたい。 このような自然と人が一体になる感覚はマチゲンガ族の豊かな精神 世界を表しているように感じる。
リョサはマチゲンガ族をどのように描こうとしたのであろうか。 彼は第6章で、友人の作家にこのことについて語らせている。 呪術― 宗教的な精神構造を持った未開人の話し方を真に伝えるような文学 的形態を、論理的で知的な図式の中に、 しかもスペイン語で構築することは容易ではない、 自分のもくろみはいつもいかがわしい表現になってしまい、18世 紀のヨーロッパで「良き野蛮人」が流行し、 啓蒙思想の哲学者や文学者が異国の原住民に話させていたような企 てで、説得力を欠いていたと。 そして何度かの中断の後にやっと書くことができたのがこの物語で あることを最後の章で述べている。
リョサはこの物語を書くに当たって、勿論、アマゾンでの経験、 様々な文献などを参考にしたようであるが、 彼の考え方を知るヒントがやはり、 この山口昌男との対談の中に示されている。 ペルーのインディオ文学を代表する彼より一世代前の二人の作家、 アルゲダスとアストリウスについて言及して、 アストリウスの文学は彼がソルボンヌの人類学者のもとで学んだ古 代インディオに関する豊富な知識にもとずくもので、 作品に出てくるのは教養を通じて思い描かれた架空のインディオで あると語る。それに対して、アルゲダスは、ほかの作家たちが、 インディオに語らせるとき、方言やら、 ケチュア語がごちゃ混ぜの何とも奇妙な文体か、 あまりにもまともなスペイン語を使ったが、 彼は彼自身が一人の現代に生きる本物のインディオで、 インディオの心情を過不足なく伝える独自の表現を編み出したとし ている。 ここにリョサのあくまでインディオの実相に迫りたいとしている意 欲が伺える。
物語はインディオを取り巻く環境が時々刻々変化していることを伝 えている。宣教師たちや言語学者たち、ゴムの取引商人、 コカインの運び屋などはそれぞれの思惑の中でインディオの社会に 大きな影響を与えていく。 それが自然環境だけでなく彼らの文化的、 精神的な環境への侵蝕となっている点が印象に残った。そして、 語り部が故意ではないにしろ、 キリスト教の三位一体説を巧みにマチゲンガ族の創世神話に接ぎ木 して語る部分は、 外部からやって来た語り部がマチゲンガ族の内面世界を知らず知ら ずに侵している様を想起させ、 彼の存在自身がまさに矛盾に満ちたもので、 部族社会を変容させる一つの外部勢力になっているアイロニーを感 じさせた。 部族社会を外部の勢力から守ろうとした語り部の意図とは裏腹に。 アマゾンの自然環境の保全は地球温暖化の行方と密接な関連を持つ が、物語はそれを声高には告発しない。 それよりもむしろ外部勢力からの侵蝕により、 自らの文化が変容させられることの重大性、 それを逃れるためにマチゲンガ族が放浪を選択していくことは私た ちにとっても深刻で現代的なテーマであると感じる。