痣 第15回


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このところ定期テストの採点などで忙しく沢木は美術室から足が遠 のいていた。授業後、 久しぶりに疲れた頭を癒そうと美術室に向かった。 ところがドアを開けようとしても鍵がかかっていることに気づいた 。しかしなんとなく中からは人の気配が感じられる。 今までにないことだったのでいぶかしく思い、 ドアの摺りガラスの縁から中を覗きこんだ。 すると女生徒が全裸になってイスの上に立っているのに気づいて思 わず息をのんだ。 はじめは後ろ向きになっているのでそれが誰なのかは分からなかっ た。周りの四、五人の生徒達は身じろぎするのも忘れ、 何かにつかれたように集中して鉛筆を動かしている。 まるでもうしばらくすると砂漠のなかに現出した蜃気楼が消えてし まうのではないかといった切迫感を感じさせる光景であった。 沢木は固唾を飲んで、その場に立ち尽くしていた。

しばらくするとそのモデルになっていた女生徒が突然体の向きを変 えた。それをみて沢木はあっと声にならない叫びをあげた。 それはもしやと思っていたあの典子であった。 むろん彼女の方では沢木が偶然とはいえ覗きみているなどとは夢に も思ってはいないであろう。 胸のふくらみは制服のなかにこのような豊かな丘がかくれていたの かと嘆息がでるようで瑞々しいピンクの蕾とともにあった。 そして下半身は腰のくびれの曲線がいかも優美で臀部は豊かであり 、柔らかい茂みはおもいのほか黒々と繁茂していた。

不思議なことに典子の顔には羞恥心のようなものはかけらほども見 受けられなかった。 ゆったりと寛いでまるで親しい人々の間で水浴びしているような雰 囲気で、他人に見られているといった緊張感はなかった。 まわりの生徒たちはこの与えられた時間を大切に生かさなければと いった切迫した気持ちに突き動かされているようであった。 呆然と眺めていた沢木はふと我に返ると、 ここで結果として盗み見していることになってしまったことに気づ き、足早に立ち去った。

 

それからしばらくの間、 沢木は美術室の前を通りかかることはあったが中には入らなかった 。廊下から眺めると、特別普段と変わることはなく、 相変らず数人の生徒が思い思いに鉛筆や絵筆を握っているのが見え た。授業中の典子にも特別な目立った変化はなかった。

時間が経過すると、 いつしか沢木は美術室のすりガラスの隙間からのぞき見た光景は幻 だったのではないかという思いにとらわれていった。 あれは自分の見た白昼夢だったのかもしれない。 それほど生徒達の姿は平穏な放課後のそれだったのである。

ある日、久しぶりに沢木は美術室を訪れた。「 先生はこの頃姿をみせなかったですね。」 一年生の男子生徒が声を掛けてきた。「 もうすぐ文化祭があるからその展示用に作品を完成させようと思っ ているんです。 スケッチを何枚か描いてあるからその中の気にいったものを絵にし ようとしているんですけれど」 と言いながら彼はスケッチブックをぱらぱらとめくり始めた。 何枚かの後に突然、裸体のスケッチが現れた。 それはまさしくあの時垣間見た典子の裸体画であった。 彼は一瞬ぎくっとなったように手を留めたが、 すぐに何気ない風を装いながらページを次々とめくっていった。 沢木はやはりあれは現実だったのかという思いに捉えられていた。

 

沢木はときどきその時みた男子生徒のデッサンを思い浮かべること となった。 輪郭はおずおずと震えるような繊細な線で描かれていたが、 体の質感や量感の表現には独特のものがあった。胸の突起、 臀部のふくよかさは思いがけないほど正確に捉えられていた。 彼は以前マチスピカソの素描をみたことがあったが、 ゆるぎない自信に満ちた単純にして的確な線が印象的であった。 しかしあの生徒のデッサンのおずおずとした調子の線描は思いがけ なくも彼の胸を打った。 一つ一つの線の不連続性は未知の領域に踏み込んでいくときの期待 と不安に満ちた彼の胸の鼓動を彷彿とさせるものであった。 典子の裸体を前にしてそれに圧倒されながらもなんとかその神秘に 踏み込もうと息を凝らして緊張しているものの存在を感じさせた。 彼は裸体を曝け出した典子に誠実に応えようと胸の動悸を感じなが らも真剣に鉛筆を走らせていたに違いない。

あれはあらかじめ計画されたものなのか、 それとも偶発的におこったものなのかは知る由もなかった。 しかし部員の生徒達が息詰まるような緊張感と真摯な態度で裸体の もつ神秘性に吸い寄せられるように向かい合っていたことは確かだ った。典子はその時、 羞恥心などはどこかに置き忘れていたに違いなかった。 この出来事の後、 部員たちの関係性は何か変化を来たしたのだろうか。彼ら、 特に男子生徒たちは典子に対して性的な感情を持つことはなかった のだろうか。なによりも当の典子本人はどう考えているのだろう。 彼女はどのようにしてあのような思い切った行動に出たのだろうか 。 授業でみる彼女はやはりなんら変わったところもなくクラスの生徒 たちの中に埋没しているかのように見えた。 しかし沢木は月一回の服装検査のときは典子のいるクラスには当た らないように周到に気を配った。 彼女の体には触れてはいけないと思わせるものが彼の中に芽生えて いた。なぜか彼女は聖なる存在であると感じられたのである。 様々な思いにとらわれ典子に対しては以前と同じようには振舞うこ とができなくなっていくようで、 沢木はそんな自分に少なからず驚きを感じていた。

 

 次回に続きます

 

 

 
 

痣 第14回

 


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よく晴れ渡った空にはむくむくと湧きあがるような雲があったが、 盛夏に比べると形は小さかった。 時ならぬ先日の台風のおかげで校庭のイチョウの木から若いギンナ ンの実が落ちている。生徒の通学用の自転車に踏みつけられて、 黄色味がかった若草色の銀杏は果肉が破れ、 地面にべったりとへばりついている。 沢木はそのつぶれた銀杏を注意深く避けながら、 眩しい朝の光の中を校舎に向かって歩いて行った。

夏休みが終わり、きょうから新学期が始まった。 各教科の準備室はあったが、 そこに常駐することは管理上好ましくないと推奨されていなかった 。そのためほとんどの教員が職員室にいた。 美術室は理科室などの特別教室などが並ぶ二階の廊下の突き当たり にあり、学内のほかの場所からは少し離れた場所にある。 放課後は美術部の生徒が三々五々集まり、 思い思いに画架にむかっていた。 沢木は時々あまりにも清潔で息苦しい学校の雰囲気に気づまりを憶 えると自然に美術室に足が向いた。 部屋にはビーナスやシーザーなどのデッサン用の石膏像が並び、 画架も何本か立てかけられている。 壁には美術の教師の好みなのだろうか、 お行儀のよいヨーロッパの風景の複製が何枚か掛かっている。 いつ行っても五、 六人の生徒が絵筆をとって思い思いに水彩画を仕上げていた。 沢木はそのなかで典子という女生徒の絵に目を留めた。 沢木の授業のときにはほとんど発言したことのないどちらかという と目立たない生徒であった。

「これはどこを描いたものなの」

「夏休みにみんなで行った伊豆の海です」

「いろいろな色を繊細に使っているね。 太陽の光に煌めくような海面の様子が生き生きしているね。」

「そうですね。 海を表現するのはとても難しいけれどどうやってそれを表現しよう かと考えている時間は楽しいです」 彼女は教室にいる時とは打って変わってすこし上目使いではあった が嬉しそうな様子で答えた。 よく見ると彼女の左側の頬に小さな痣があった。 沢木はすぐにあの久米の痣を思い出したが、 彼女のそれは薄い桜色で面と向かうことがなければ見過ごしてしま うような小さなものであった。

沢木はあらためて典子の作品を眺めた。 水彩ではあるが五十号ほどの大きな作品であった。 それは子供の絵のもつ感じたままをダイナミックに表現する描き方 とは明らかに異なっていた。 年齢が進むにつれて少しずつ獲得された、 三次元のものを二次元に移し替える様々なテクニックを駆使しなが ら色彩の使い方にも初々しい躍動感を感じさせるものであった。 そこには彼女の文章から感じるあの固く凍りついたような鎧はなか った。現地に行って自分の眼で確かめ、 感じてスケッチしたものでなければ描くことのできない独自の視点 を感じさせる作品で、 画面からは磯の香りや浜辺に干してある魚の生臭い匂いが感じられ た。 沢木はその魚をめがけてカモメが襲いかかる様子が鳥の眼で捉えら れていることに驚嘆した。 魚をつかみ取るまさにその瞬間の鳥の前足の動きが構造的にもしっ かり捉えられている。 彼女は文章より絵で自分自身を表現する方が容易なのかもしれない 、 それとも典子は授業で提出する文章には意図してフィルターのよう なものをかけているのだろうかと彼は考えていた。

別の日に部屋をのぞくと彼らは椅子に座り、 互いをクロッキーで描いていた。すばやく鉛筆を走らせ、 瞬間の体の動きを掴みとろうと夢中になっているようであった。 沢木が部屋に入って行っても軽く会釈するだけで手を留めようとし なかったことからも彼らがいかに熱中しているかが感じ取れた。

 

 次回に続きます

痣 第13回



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夏休みを間近にひかえた日射しの強い一日であった。朝の職員室にはなんとなくざわめいているような落ち着かない雰囲気があった。それがどこからくるのか沢木にはわからなかったが、朝の打ち合わせで生徒の服装検査があることを教頭から知らされた。月曜日の朝のことで生徒は全体集会に参加するために体育館に集合していた。彼は担任もないので入り口付近に立って集会が始まるのを待っていた。生徒は学年別に整列している。体育館のなかには思春期の生徒たちから発散する独特の体臭が籠っているように沢木には感じられた。

 


校長の訓話や諸注意の伝達が終わると服装検査が始まった。物差しを持った生徒指導部の教師が女子生徒のスカートの長さをチェックしている。膝下十センチという規定が生徒手帳にあるがそれに違反していないかをみるのである。ほかにも学生服を改造していないか、白いカッターシャツの下に色の付いたアンダーシャツなどを着ていないか、靴下も白で三つ折りという規定に反していないかなどこと細かに検査がなされた。それだけではまず普通の服装検査だが、その後、女生徒が検査に合格するようにスカートをウエストのところで折り曲げてスカート丈を調節していないかを職員総出で点検するよう指導部の教師から指示を受けた。女生徒一人一人の腰の部分に手をいれて確認するのだという。

 


沢木は初めのうちは躊躇して列の脇にいたが、久米の全員の教師が取り掛かるようにという大きな声がマイクから流れると、押し出されるように二年生の女生徒のところに行った。最前列の女生徒の腰の脇に手を差し入れると滑やかな下着の感触の下に生温かな肉があることを感じ、手に電流のような慄きが走った。それと同時に甘やかな女性特有の匂いが鼻をくすぐった。それはもはや子供ではない成熟しつつある女性の体で、手を伸ばせばすぐ上の胸のふくらみに届く。彼はグラグラするような感覚に襲われた。いったい自分は何をしているのだろう。ふと今自分が手でまさぐった女生徒と目が合った。そしてお互いにすぐその目をそらして目を伏せた。彼女は列の最前列にいる小柄でどちらかというと幼い感じにみえる生徒であった。しかし、その女生徒の体がこれほどまでに成熟しているのを感じ、沢木は動揺していた。続けて二人、三人と手を差し入れてもこの行為に慣れるということはなかった。痩せて骨ばっているかのような生徒でも腰から臀部にかけては思いがけずも豊かであることを知って彼は驚嘆の思いを禁じ得なかった。初めのうちは苦役のように思っていた検査であったが、次第にその行為の中に愉悦を感じている自分を発見して愕然としていた。気がつくと周りにいる男子生徒の視線が彼の体に突き刺さってくる。羨望あるいは非難、それともその二つが微妙に入り混じったものなのかは彼にはわからなかった。沢木は列の後方に裕也が目を伏せて立っているのに気づき、深く恥じ入りながら傷ついている自分を発見していた。

 


 

 


思春期は自分の体型が急速に変化し戸惑いを感じる時期である。その自分の体の思わぬ変化を強調したり、隠そうとしたり、またあえて無関心を装ったりとその変化に対応する姿勢には個人差があり、そこに本人が意識するとしないとにかかわらず、彼らの人生への向かい方の原型のようなものが現れるのではないかと沢木は感じていた。服装はおのずとそれを表現するものであるはずだ。それゆえ同じ制服を着ることにはひとりひとりの個性を無視して一つの鋳型にはめるというある種の暴力性があった。それだけでも耐え難いと感じる生徒が何人かいるはずなのだ。その上その鋳型にはめるのに少しの揺らぎも許さずしっかりはめ込もうとするこの学校の方針にはなぜそこまでするのかという思いが湧いた。しばらくしてふと我に返ると数人の生徒が列の外へと出されているのに気付いた。そのほとんどはあえて違反することも辞さないという繁などいつもの常連たちであったが、なかには身長が驚くほど短期間のうちに伸びて本人にも気づかないうちにスカート丈が短くなっていたという女生徒もいる。そして残りの生徒たちのなかには違反した生徒を揶揄するような目で眺める生徒もいるのに沢木は気付いた。同じ生徒間でお互いに対立し合うような雰囲気、あるいはそこまでいかなくても違反した生徒に対して無関心を装うようなよそよそしい雰囲気があった。

 

 次回に続きます

 

痣 第12回



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学校内の図書室は新設校のせいであろうか、蔵書数はあまり多くない。生徒の自主的な活動である図書委員会もそれほど活発でもなく、委員による推薦図書の紹介や読書会の開催がなされている様子は見受けられなかった。沢木は図書室の隅の机に今印刷したばかりの用紙を並べていった。ふと目を上げると、窓際に見覚えのある生徒が座っているのに気づいた。彼は沢木と目が合うと読んでいた本を手に持って近づいてきた。間近で見ると面長な顔にはうっすらと柔らかな産毛が生えており、まだ大人になり切っていない幼さの片鱗が残っていた。個人差はあるが高校二年のあたりを境にして蛹が蝶に変身を遂げるように急速に大人へと物腰全体の雰囲気を変えていく生徒が多い。彼はその変化の予兆を感じさせるどこか壊れやすい柔らかな蛹のような趣があった。

「今、先生が授業で取り上げている「ソクラテスの弁明」を読んでいたのです。父親の本棚にあって、本も薄くて読み易そうだということでこの作品は今までに二、三回読んだことがあるけれど。今回先生に紹介してもらってひさしぶりにまた読んでいるのです」

裕也ははにかんだような微笑を浮かべながら答えた。

「今読んでいたのは彼が死刑判決をうけて皆が退席していくなかでその人びとに向かって話しかけるところです。死を悪いことだとみなすことは正しくない、『私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。我ら両者のうちいずれがいっそう良き運命に出遭うか、それは神よりほかに誰も知るものがない』という言葉にいつもながら頭をガツンと殴られるような気分になるのだけれど。小さい頃から僕は死ぬことが怖くて夜中に目が覚めるといつも震えていたんです。それがあるときこのように言い切っている人間がすでに二千年以上前にいることに心底驚いてしまって」

彼は眼の中に驚嘆した時に人が見せるどこか放心したような光を宿していた。

「そうだね。僕も子供の頃、同じように夜を感じていたものだよ。大人になってからも時々同じような疑問に取りつかれて寝損じてしまうことが今でもあるけれど。僕にもこのソクラテスのように言い切る勇気は今もないな」

沢木は自分でも珍しく率直な気持ちを込めて話していた。この学校に赴任してきてからどことなく緊張して他人に対して身構えることが多かったが、不思議なことにこの生徒に対してはそれが少ないことに気づいた。

「僕は体を動かすのは好きでバレーボール部に所属しているけれど、こうやって図書室で本を読む時間がないと自分が糸の切れたタコのようにどこへ行ってしまうのかわからなくなって恐ろしくなることがあるんです。」裕也は立ち上がりながら言った。その時、沢木は眉間を微かに寄せて自分の顔をひたと見つめる裕也の様子にはなにかしら人を寄せ付けない憂いの翳があることに気づいた。翌日の放課後、沢木は体育館のネットのそばでアタッカーのためにトスを上げている裕也の姿を見たが、その屈託のない笑顔からはあの図書館での言葉を連想することは難しかった。

 

 次回に続きます

痣 第11回


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沢木は二年生の倫理社会の授業のなかで時々生徒に文章を書かせていた。レポートであったり感想文であったり形式は様々であった。二、三年生は成績順のクラス編成であったが、優秀なクラスでも紋切り型や、予定調和的な文章が多かった。几帳面な文字の後ろには空疎な空間が広がっている。彼らの文章を読んでいると船内ですでに冷凍された形のよいマグロが魚市場に整然と並んでいる場面を連想させられた。文章からその生徒の肉声らしきものが聞こえてこないだろうかと期待しながら読み進めていったが、裏切られることが多かった。一年生の時にはまだ幼いながらも自分の言葉で語ろうとする姿勢が見られたのかもしれないが、学年が進むと少数の生徒を除いてそれも消滅していた。皮肉なことに、こうした点から見ても、組織が個人に優先するというこの学校の教育方針はやはりある程度の成功をおさめているようであった。

 

 次回に続きます

 

六月から一学期の間、沢木は思い切って通り一遍の講義形式の授業ではなく、「ソクラテスの弁明」を教材として取り上げることにした。短い文章ながら西洋哲学の根幹をなす知性とはなにかという問題に迫ることができるのではと考えたからだ。教科書はギリシャから始まって現代にいたるまでの哲学と思想史の概略を学べるように編纂されていた。しかし、教師用の指導書に沿ってそれらしく解説しても生徒の頭や心に届くとは到底思えなかった。各クラスで生徒に尋ねたところ、この本を持っていたのは数人であった。それも他の家族の蔵書であることがほとんどで、読んだことのある生徒はほんの二、三人であった。そこで沢木は放課後の時間を利用してテキストを数編に分けて原本からコピーし、印刷、製本することにしたのである。

授業ではこの「ソクラテスの弁明」を冒頭の部分から数人の生徒に五分ぐらいずつ読ませることにした。家で読んで来いと言っても難しいであろうということがわかっていたからである。彼らに薄められた知識の残滓のようなものではなく本物の知性の言葉に触れてもらいたかったし、自分も彼らと一緒にそれを味わいたかった。例えて言えば同じミカンでもジュースになったそれではなく、実っているミカンを自分の手でもぎ取り、皮をむき口の中に放り込んで、その甘さだけではない酸味やほのかな苦み、そして皮を剥いたときに辺りの空気の中に立ち上る揮発性の香りをも自分で実感しながら味わってもらいたかった。

冒頭部分は「アテナイ人諸君、諸君が私の告発者の弁論からはたしていかなる印象をうけたか、それは私にはわからない。」という一文で始まっていた。指名された生徒は次々と読み継いでいった。初めは無表情な声で読んでいたが、読み進めるにつれて少しずつ集中していくことが感じられ、沢木も知らず知らずのうちに生徒の集中に影響を受けていった。

アテナイ人諸君」というソクラテスの呼びかけに答えるかのように生徒の心が動き出すのが感じられた。それは彼らの姿勢がいつの間にか背筋が伸び、前のめりになり、目の輝きが少しずつ増して首をかしげる様子も力強さを増していることに見て取れた。クラスの三分の一ほどの生徒はやはり関心がない様子で窓の外を眺めたり、教科書の陰に英語の単語帳や数学の問題集を隠していたが、それでも残りの生徒たちがまるでゼンマイを新たに巻かれた人形のように動き出したのをみて彼はあらためて作品の持つ力、二千年以上のときを経て人を動かすことのできる言葉の力を今更のように感じるのだった。

 

痣 第10回


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一学期は沢木にとっては目新しいことばかりでまたたく間に過ぎていった。職員室でそれとなく見聞きするところによると、受験に関係する教科では到達度を測るために小テストが繰り返されているようであった。教科主任の川口はよく自分のテストで成績の良くなかった生徒に運動場を何周か走らせる罰を与えていた。暗記が苦手だったり、課題の提出を忘れたりとその理由はさまざまであったようだが、放課後になると毎回二、三十人の生徒が走っている様はなにやらユーモラスでもあった。しかしある日、笑って済ませることのできない出来事が起こった。

 

毎週木曜日の放課後には職員会議が開かれることになっていたが、その日は会議の冒頭で次のような教頭の発言があった。

「今日は生徒の生活指導がテーマですが、職員会議は討議の場ではないことを皆さんによくわきまえてほしい。校務委員会で決定されたことを伝達する機関であることを忘れないでいただきたい。」

またかと沢木がうんざりした思いで聞いていると、その教頭の発言に年配の教師が質問した。

「私はこの学校に赴任する前に二つの学校を経験しましたが、生徒指導については特に教師の自由な討議で決めていたものです」ここまでその教師が話し始めると数人の校務委員が次々と手を挙げ、指名されると口々にその教師をあからさまに罵倒し始めた。

「ここではそんな時代遅れな考えは通用しませんよ。」

「皆で議論していても碌な結論は出ないよ、時間が無駄に過ぎるだけだ」

教師たちが臆面もなく同僚を攻撃する様に沢木は苦い思いであった。職員室のなかはあたかも暴風雨が到来したかのように凶暴な雰囲気に席巻されていた。沢木はあらためて教頭以下校務委員会の面々の顔を眺めたが、一人一人はもし近隣で会えば人がよさそうな弱々しい笑みを浮かべて挨拶しながらすれ違うような人物のように見える。ところがひとたび派閥の成員として行動し始めると彼らはまるで別人のように変身するのであった。若い教師の大半もそれに迎合していた。

「この学校の方針を他の学校と比較して批判するのはやめて頂きたい。いやなら辞表を出すべきだ」数人が同じ趣旨の発言を激しい口調で繰り返したことで、ついにその教師も口を噤まざるをえなかった。うつむいた彼の顔はまるで能面のように青白い。職員室の中には、いつのまにか窓から入ってきたブヨが数匹飛んでいた。

あの入学説明会のときと同じだと沢木は執拗に繰り返されるこの単純な論理に辟易していたが、一方ではそういう単純な論理であるからこそ人を惹きつける磁力が強いのかもしれないと感じていた。学生時代にもいやというほどそれを見てきたが、人間は往々にして単純でわかりやすいものに飛びつく。しかし現実というものはいろいろな要素が錯綜し絡み合って、一筋縄ではいかないものだ。その時、ふと沢木は旅先の漁港でみた光景を思い出した。地元の漁師は、陸にいる間は大半の時間をそのことに費やすと言っていたが、貝殻や昆布、名前を知らない海藻がびっしりと纏わりつき、ところどころ破れて穴の開いてしまった網を丹念に繕っていた。僕もあの漁師と同じようなことをしたいという思いが沢木の胸ににわかにこみ上げてきた。それは唐突ではあったが、やっと泥の中から拾い出した硬い石ころのように確かな手ごたえのあるものであった。

沢木はあらためて生徒たちと読んでいる「ソクラテスの弁明」について思いを巡らせた。多くの人を敵に回しながらも愚直とも思えるやり方で知ることの意味を追求していったソクラテスの行動を彼はあらためて現実感をもって受け止めていた。あれは絵空事ではない、彼の行動はきわめて今日的でもあると感じ、すぐ隣に静かに呼吸しているかのようにあのソクラテスというギリシャ人の存在を意識した。

    

   次回に続きます

 

痣 第9回


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戦前に開催された博覧会の跡地に作られた都市公園の緑の中に中央図書館はあった。二階へ上る階段の途中に踊り場があり、半円形に外に向けて張り出した大きなガラス窓があった。窓の外を見ると高さが二メートルを超すと思われるハナミズキが白い花をつけている。彼はいつもこの半円形の窓の作用を好ましく感じた。幅の広い階段を登って踊り場で立ち止まると公園の緑のなかを行きかう人やその上に広がる空が見える。これから外界をしばし離れて自分の内面世界に入っていくのだというある種の旅の感覚を強く意識させられた。そして逆にしばらく二階で時間を過ごして降りてくるときは、今までの本の世界に沈潜していた心を開放し、現実世界に戻っていくための心の平衡を取り戻す空間になっていた。

沢木はこの窓から見る景色に触れるたびに、建築の設計者の細やかな心配りを感じた。空間が人の意識に大きな影響を与えることを熟知した設計者だったのだろう。同時に今自分が勤めている学校の箱状の建物を思い出していた。人の感情を鼓舞したり、鎮静したりする仕掛けをもたない建物は、最低のコストで生徒を収容する容れ物を作るという意思の体現であり、生徒の心を育むという視点は欠落しているように思われるのだった。

 

しばらく二階で本を読んでいた沢木はゆっくりと階下に降りてソファに座った。休日の図書館は家族連れや年配者でいつもより賑やかだ。人々は思い思いの本や雑誌を大切そうにかかえてカウンターに向かっている。

彼は今まで読んでいた「ソクラテスの弁明」について思いを巡らしていた。彼が裁かれたギリシャの法廷はどのようになっていたのだろう。デルフォイの神殿のような円形劇場なのだろうか。ソクラテスはどの入り口から引き出されて弁論を行ったのだろう。裁判員の数や裁判を見守る聴衆はどのくらいいたのだろうか。そして彼らはソクラテスとどのような位置関係に座っていたのだろうか。沢木は次々とギリシャの法廷の様子に想像の翼を拡げていた。あの裁判が行われたのは照り付ける地中海の太陽のもとなのだろうか、それとも濡れそぼる小雨の中だったのだろうかと。

彼は学生時代からギリシャ神話やプラトンを愛読していた。神話の中では神と人間は親しく交流はするが神が不死であるのに対し、人間の命が有限であることが強調されていた。 そして本当は神だけが知恵あるものであり、人間は知恵という点では神にかなわない存在であるということを知っていることが自分の拠って立つ基盤であるとソクラテスは主張していた。そういう意味ではソクラテスギリシャ的伝統の中に生きる人である。しかし沢木の心のなかには先ほどから様々な思いが去来していた。彼にはなぜ自分がこのような目に遭うのかという理不尽さを呪う思いはなかったのだろうか。人々の憎悪を前にしてたじろぐことはなかったのだろうか。プラトンや支持者たちが周りにはいたが、大勢の人間を前にたったひとりで対峙する彼の心中に去来するものはなんだったのだろう。ソクラテスの文章はすべてプラトンによって書かれており、あくまでプラトンの目を通して描かれたソクラテスである。沢木は直接ソクラテスが何を感じ苦悩していたか、その感情の揺らぎをつかみ取りたいと切実に願っている自分を意識していた。

 

沢木は中央図書館の最寄りの駅から地下鉄に乗って街の中心にある駅で降りた。地上に出ようと階段を上っていると後ろから肩をたたく者がいる。振り返ると意外なことに久米がいた。

「よお、こんなところで会うとは。もっとも休日ぐらい職場の連中とは顔を合わせたくないというところか」

そういう彼を見ると紺色のジャケットと格子柄のシャツといったいでたちであった。深めの中折れ棒帽をかぶっているので目の周りの青痣は目立たなかった。

「時間があればコーヒーでも飲まないか。」

断る理由も特別見当たらなかったので、沢木は彼のあとについて広い道路沿いにある喫茶店に入った。テーブルをはさんで向かい合うと久米はポケットからたばこを取り出して火をつけ、大きく息を吸い込んだと思うとゆっくりと吐き出した。偶然の成り行きに沢木は少し緊張気味に座っていたが、それを久米には気取られたくはなかった。

「ところで転任してきてからまだ数カ月といったところだけれどだいぶ慣れたかい。他校と比べて少しばかり変わっていると言えば変わっているから。」と久米は言いながらやはり探るような目つきで沢木を見た。

「そうですね。生徒がおとなしくて礼儀正しいのには少しびっくりしています。」

「初めが肝心なのさ。君も見ただろう。オリエンテーション合宿で規律を叩き込む、先手必勝だ。少数の教員で多くの生徒を把握するためにはこれしかない。校務主任も言っていたと思うが、数年前に大学紛争の影響を受けて高校の卒業式が大荒れになったことがあっただろう。あんなふうに一部の生徒がとんでもない主張を始めると全体の秩序が壊れていくのさ。」

「そういう意味ではかなり成功していると言えるのかもしれませんね」

「俺は前にも話したけれど、体育大学出身だから先輩後輩の関係は厳しかった。どんな理不尽なことも先輩の言うことは絶対だった。俺は見たとおりの顔に青痣があるだろ。ある先輩は俺に酒を飲ませるとそれが大きく赤黒くなるのが面白いと言って無理やり俺に酒を飲ませてその変化を楽しんでいた。もう飲めないというと袋叩きにされ殴られるのが常だった。徹底的な服従しかないんだ、先輩には。」

「それにしっかり耐えると次にやって来る後輩に同じようなことを要求できるということですか。」

「そうさ、察しがいいじゃないか。我慢していればそのうちいいことがやってくるというわけさ。」

「僕も背中に同じような小さな青痣があるんです。直接みることができないから、今ではあまり意識することもありませんが」

「同じ痣でもそれがどこにあるかで大違いさ。俺なんか顔のまんなかに威張りくさって居座っていやがるんで忘れようとしても忘れられないのさ。どれだけ子供の頃から苛められたか、君には想像もつかないだろうよ」

久米はここまで言うともう一本のタバコに火をつけた。口元には苦々しい経験を思い出すかのように自嘲気味の薄笑いが浮かんでいた。

 

 次回に続きます