バルガス リョサ 『密林の語り部』を読んで


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この本は先日参加した読書会の課題図書であった。バルガス・ リョサは1936年生まれのペルーの小説家でジャーナリストでも ある。以前読んだことのある同じ著者の『緑の家』 は彼の初期の代表作であるが、今度のこの作品は1980年代に書 かれた中期の作品である。同じ本を読み、 相対して議論したり感想を述べあったりすることで新しく気付かさ れたことも多かった。

 

この物語は、 文明を捨てて未開の中で暮らすインディオ語り部となった一人の 青年を、彼の大学時代の友人で著者を思わせる 小説家の眼から描いたものである。構成は8章に分かれ3,5,7 章は語り部の独白という形をとっている。 読者は章が変わるごとに友人とその語り部の二人の間を行きつ戻り つする旅人になるのである。 それは語り部のいるアマゾンの密林とその友人の滞在するマドリー ド、パリ、フィレンツェ、リマなどの都市との往還の旅である。

 

語り部になったサウル・スラータスはこの世で最も醜い、 と同時に最も人当たりのよい青年であったと書かれている。 その様は「モップの毛のようにぼさぼさの赤毛で、 顔の右半分を完全に葡萄酢のような暗い紫色の痣があり、 それは耳も唇も鼻も所かまわず静脈の腫れのように広がっていた」 と描写されている。 そして東欧なまりのあるスペイン語を話すユダヤ教徒の父親と二人 、リマで暮らしていた。 彼は痣にコンプレックスを持っているような素振りを人前で見せるこ とはなかったが、キリスト教徒の多いリマで、 また異形の風貌故に社会の中に自分の帰属する場所を見つけられな いでいた。そのことが父親の死後、イスラエルに行くと騙り、 密林のなかに踏み入り,方々に分散して放浪を繰り返すマチゲンガ 族の語り部となっていく契機になったのは想像に難くない。 しかし、大学在学中に法学志望から人類学に選考を変え、 アマゾンの密林のフィールドワークに従事し将来を嘱望される人類 学研究者の道を歩み始めたかに見えたその男が、 スペイン留学も辞退し、行方をくらましてしまうのである。

 

物語は語り部の独白を奇数の章に挟んでいくが、 初めは誰がそれを語っているのかということは隠されており、 後半になるまで謎のままである。 友人はスラータスが行方不明になったのち、 偶然フィレンツェの画廊で見たアマゾンのマチゲンガ族の写真の中 に、 人々に囲まれて写っている明らかにインディオとは異なる体形の男 を見出し、彼が語り部になっていたことを確信する。

 

なぜ彼はこのような行動をとったのであろうか。 友人はこの彼の行動にみられる、 理性では計り知れない得体のしれない情熱を回心という言葉で表現 する。「彼の内部で発酵し、ついには神秘的陶酔、 おそらくは殉教者名簿の探求という性格」を帯びていたと。

 

たしかにそれは余人には到底理解できない。しかし、彼の行動、 それは私たちの中にある理性と本能のせめぎ合いと葛藤を示唆する ものではないだろうか。 人が理性のみで行動するならば文学は存在しない。 この矛盾に満ちた人間そのものを描くのが文学ならば、それゆえ、 わたしたちは彼の行動の是非を問うことはせず、 ただ彼と共に密林を放浪していくしかない。「 天の眼である太陽が人びとを温め, 禍も風も雨もなく女たちが清らかな子供を産んでいた」 そのような安らかで怒りもなかったマチゲンガ族の創世の神話を信 じ、それが「やがて太陽が落ち始め、 その太陽が落ちてしまわないように太陽を助けるために人々は放浪 の旅に出る」のである。放浪しながら暮らしていくために、 身軽になり、身の回りの物を捨てる。「 新しい命は放浪の中で生まれ、年寄りは放浪の中で死んでいった。 朝の光が差し込んでくる中を身体に触れて揺れる茂みをかき分けな がら、すでに一列になって歩いていた」

 

リョサは丁度この作品が書かれたと同じ頃出版された『20世紀の 知的な冒険』で山口昌男と対談しており、 その中で思想家のバタイユの人間の相対立する二つの衝動について の考え方に大きく影響を受けたと語っている。 本能や想像力を制御することによりこの生を享受し、 生命の存続を図っていくべきだと指示する理性的で社会的な心の動 きと、人間性を貫くにはたとえそれが自己の破壊、犠牲、死,生の 消滅に繋がろうとも本能に従い、 理性を否定することにより限界を超えていくべきだと指示するもう 一つの心の動き、 この二つの力のぶつかり合いの理論が今の我々の生きる時代や文化 をより的確に解明するものであると。

 

語り部は次のように語る。 旅をしているときに退屈したことはない、 悲しみを感じたこともない。耳を澄ましてみる。 すると地面が話し始める。思ってもみなかったもの、骨や棘、 石ころやかずら、生えてきた茎や葉、枝によじ登った鼠、 水の波紋が話す。私の元を去っていく魂の破片、 そして私を取り囲んでいるものたちの母親が私を訪ねてくる。 私には聞こえるようになり、 全てのものが何か話すことをもっているということが、 耳を澄まして分かったことだと。 私はそれを全部覚えてあなたたちに伝えたい。 このような自然と人が一体になる感覚はマチゲンガ族の豊かな精神 世界を表しているように感じる。

 

リョサはマチゲンガ族をどのように描こうとしたのであろうか。 彼は第6章で、友人の作家にこのことについて語らせている。 呪術― 宗教的な精神構造を持った未開人の話し方を真に伝えるような文学 的形態を、論理的で知的な図式の中に、 しかもスペイン語で構築することは容易ではない、 自分のもくろみはいつもいかがわしい表現になってしまい、18世 紀のヨーロッパで「良き野蛮人」が流行し、 啓蒙思想の哲学者や文学者が異国の原住民に話させていたような企 てで、説得力を欠いていたと。 そして何度かの中断の後にやっと書くことができたのがこの物語で あることを最後の章で述べている。

 

リョサはこの物語を書くに当たって、勿論、アマゾンでの経験、 様々な文献などを参考にしたようであるが、 彼の考え方を知るヒントがやはり、 この山口昌男との対談の中に示されている。 ペルーのインディオ文学を代表する彼より一世代前の二人の作家、 アルゲダスとアストリウスについて言及して、 アストリウスの文学は彼がソルボンヌの人類学者のもとで学んだ古 代インディオに関する豊富な知識にもとずくもので、 作品に出てくるのは教養を通じて思い描かれた架空のインディオで あると語る。それに対して、アルゲダスは、ほかの作家たちが、 インディオに語らせるとき、方言やら、 ケチュア語がごちゃ混ぜの何とも奇妙な文体か、 あまりにもまともなスペイン語を使ったが、 彼は彼自身が一人の現代に生きる本物のインディオで、 インディオの心情を過不足なく伝える独自の表現を編み出したとし ている。 ここにリョサのあくまでインディオの実相に迫りたいとしている意 欲が伺える。

 

物語はインディオを取り巻く環境が時々刻々変化していることを伝 えている。宣教師たちや言語学者たち、ゴムの取引商人、 コカインの運び屋などはそれぞれの思惑の中でインディオの社会に 大きな影響を与えていく。 それが自然環境だけでなく彼らの文化的、 精神的な環境への侵蝕となっている点が印象に残った。そして、 語り部が故意ではないにしろ、 キリスト教の三位一体説を巧みにマチゲンガ族の創世神話に接ぎ木 して語る部分は、 外部からやって来た語り部がマチゲンガ族の内面世界を知らず知ら ずに侵している様を想起させ、 彼の存在自身がまさに矛盾に満ちたもので、 部族社会を変容させる一つの外部勢力になっているアイロニーを感 じさせた。 部族社会を外部の勢力から守ろうとした語り部の意図とは裏腹に。 アマゾンの自然環境の保全地球温暖化の行方と密接な関連を持つ が、物語はそれを声高には告発しない。 それよりもむしろ外部勢力からの侵蝕により、 自らの文化が変容させられることの重大性、 それを逃れるためにマチゲンガ族が放浪を選択していくことは私た ちにとっても深刻で現代的なテーマであると感じる。

 

サーカス・シルクール ニッティング・ピースを観て  


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愛知県芸術劇場スウェーデンのサーカス・ シルクールの舞台を観た。演出はティルダ・ ビョルフォシュである。1995年スェーデンで活動が始まったこ のサーカスの創始者のひとりで、 シルクールはサーカスと心を意味する仏語からなる合成語という。

 

サーカスには幾つかの思い出がある。幼児の頃、 母に連れられて見たテントの中のサーカス、 子供ながらに薄暗いなかで繰り広げられるアクロバットには憧れと 同時に何かしら懼れを感じたものである。そして、 我が子と行った中国の雑技団、それはパンダが主役であった。 今では動物虐待と言われそうであるが、 パンダがボールの上に乗ったり車を引いたりする姿は愛らしく子供 たちは大喜びであった。時は移り、 近くのドームで行われたカナダのシルク・ ソレイユの公演にはコロナ前は毎年足を運んでいたものである。 以前のサーカスのイメージを一新するようなカラフルで現代的なサ ーカスであった。

 

しかし、 今回のシルクールは今まで経験したサーカスのどれとも異なり、 斬新でメッセージ性に富むユニークなものであった。 パンフレットによると、 シルクールは国内外の公演のほか幅広い年齢層向けの教育プログラ ムを行って、 サーカスを通して芸術の力で社会に影響を与えることを目指してい るという。「編み物をしている時間は武器をとることはできない」 というニッティング フォー ピース運動がこのサーカスの世界公演から発生して国際的にも注目 されているとのことだ。 ロビーにはこの運動に参加した人々によって編まれた様々な白いニ ット作品が展示されていた。 私もかつて子供のためにセーターやマフラーを編んでいたことがあ るが、それは今もクローゼットの片隅に眠っている。 あの自分も幼い子供の幸せを願って一針一針編み棒を動かしていた 時間、久しぶりにその時間を思い出すことができた。

 

人間の身体がどれほどのことを成し遂げ、 どんなにか美しいかということを実感させてくれるプログラムであ った。しかし、 ただ身体能力を誇示するものではなく人間の精神的活動を暗示させ る幾つかのパフォーマンスによって演目が組み立てられていること を感じた。 綱渡りや空中ブランコなどのサーカスにつきものの技も、 その技そのものを見せるというより、「平和を編む」 というコンセプトのもとに統合されていた。 通常のサーカスの持つ祝祭的な華やぎは少なかったが、 舞台装置や、 演者の衣装もほんの少しの例外を除いて白で統一され、 洗練されていた。そして音楽はジプシー音楽を思わせる、 心の襞に染み入るようなバイオリンが鳴り響いていた。

 

開演直後、 舞台の袖では白いコスチュームに身を包んだ女性が白い手編みの小 さな人形に絡まった糸を一つ一つ解きほぐしていく。 謎めいた動きを注視していると幕が開き、 鍛え上げられた肉体の男性パフォーマーが綱の上を渡っていく。 時には一輪車に乗り、その上でバイオリンを奏でるのである。 また男女のパフォーマーが大きな輪の中でバランスを取りながら回 転していくかと思えば、 白い毛糸球を思わせる大小の球を自由自在に操りながら移動を繰り 返す。そして舞台は徐々に興奮に包まれていく、 頭上から太い白いロープが幾本か降りてくる。 何が始まるのかと期待しながら観ていると、 地上から一人の男性が自分の肉体を使ってロープの幾本かを自由自 在に編み上げながら上っていく。 さながら蚕が自ら吐いた糸で自らを包んで蛹になっていくように。 最初の人形の周りの糸をほぐしていくシーンを想起させ、 それは自分を取り巻く殻を壊したり、 またその殻に閉じこもったりを繰り返す私たち自身の姿と重なって 見えてくるのである。 圧巻は鍛え上げられた筋肉質の女性パフォーマーが支えのない梯子 を絶妙なバランスを取りながら、 一歩一歩のぼっていく場面である。会場は静まり返り、 頂上に無事到達したときに初めて割れるような拍手が巻き起こった 。そして白いロープで作った鳥カゴ、 その中になぜか赤い毛糸で編み上げられた人形がそこに閉じ込めら れ、最後までそれは解放されることはない。安易な解釈はできず、 観客である私たちに何らかの謎が放たれたのだという思いが残った 。

 

公演を通して、舞台に祈りに通じるような切実さを感じた。 平和を訴えるメッセージを伝える方法としては言葉やデモなどの行 動、あるいは文学、絵画、演劇、 バレーなどの舞台芸術などの様々があることは知っていた。 しかし、 今回のように人の肉体と想像を絶する技で人々を魅了しながらの方 法は思いもよらないものであった。優れたバレーのように、 人の身体表現が精神活動と結びついた時、 その洗練された動きの中に詩的なものが宿るということをあらため て感じた。

 

舞台の最後に、 幅三十センチほどの白い糸で編んだ帯が舞台から客席に向けて幾本 もするすると伸びてきた。 観客によって後部座席までリレーされていく。まさにニッティング フォー ピースというメッセージは私たちに投げられ、 その継承を促されていることを感じさせる幕切れであった。

 

 
 

『世界史の誕生』を読んで


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この本は最近、 初めて参加した読書会で取り上げられた課題図書であった。 同じ本を読んで語り合うという経験は新鮮で改めて学ぶことも多か った。

 

この本は副題にモンゴルの発展と伝統とあるように、13世紀から のモンゴル帝国の発展の影響と後世に残した遺産を検討することに よって、世界史を読み直そうとする試みである。 著者はモンゴル史の研究者で、 論理がいささか飛躍しているのではと感じた部分もあったが、 初めて知る事実も多く示唆に富んでいた。

 

著者はまず、歴史とは何かについて「 人間の住む世界を個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で時間と 空間の両方の軸に沿って把握し、叙述する営みとする」 と定義する。そして時間そのものは物理的であるが、 それに対する人間の態度は文化であり、時間の細かさ、 と奥行きの感覚は人間の集団ごとに、 文化ごとに非常に違うと指摘する。 そのため世界の人類に共通な歴史、 世界史を知ることは簡単なことではないとする。 この問題を解決するために著者が試みたのは、 インドやマヤ文明など歴史を持たない文明が数多くある中で、 独自の歴史文化を持っている文明として地中海、 中国文明を解明することである。

 

まず地中海文明について、歴史の父と呼ばれたヘロドトスの『 ヒストリアイ』について記述する。著者は、 ヘロドトスペルシャ戦争の要因をギリシャ神話の中にあるヨーロ ッパとアジアの間に起こった4つの話に求めていることに関連して 、それは神話を歪曲したもので、 そこからアジアとヨーロッパを二分する対決の歴史観が生み出され て現在に至っていると主張する。 また地中海文明に大きな影響を与えた第二の要素として、紀元39 1年にローマの国教になったキリスト教を挙げる。 もともとはヤハウェ神とイスラエルの民との契約関係を主題とする 旧約聖書と、 新約聖書のなかにあるヨハネの黙示録の終末論と千年王国思想が、 ヘロドトス的な地中海文明の主流であったところの歴史はヨーロッ パとアジアの対決だという歴史観と併存すると、 世界は善と悪の原理の戦場であるという二元論とヨーロッパとアジ アの対立の図式が重なり合うと論じる。 そしてこのような対決の歴史観が今日の世界の紛争の背景にあると する。この部分については、 これからヘロドトスの著作を読んでみたいと思うが、 ヨーロッパとアジアの対立という側面については後世になるとこと はもう少し複雑で、 植民地となったアジアとその宗主国であったヨーロッパの国々との 経済発展の差というような様々な別の要因も影響しているのではな いかと思う。

 

ついで中国文明について、 地中海文明ヘロドトスに当たる歴史の父は『史記』 を叙述した司馬遷であるとする。 そして中国文明における歴史の性格は皇帝が統治する範囲が「 天下」すなわち世界であり、「天下」 だけが歴史の対象であると論ずる。 すなわち中国文明の歴史が皇帝の歴史であり、 永久に変わることのない「正統」の歴史であるということである。 しかし中央ユーラシア平原では6世紀以来、 遊牧帝国が成長を遂げ、とうとう13世紀になって元が華中、 華南の南宋を滅ぼす。著者は、 正史の枠組みにおさまらなかった中国世界に強い影響を与え続けた 中央ユーラシア世界の歴史を観なければ中国史は実態を反映しない ものとなると主張する。 そして最初の都市国家である夏は東南アジア系、 殷は北方の狩猟民、周は西方の遊牧民北魏、隋、 唐は遊牧民である鮮卑が樹立した国であるという。そして紀元63 0年に唐の太宗を中央ユーラシアの遊牧部族が自分たちの共通の君 主に選出して天可汗の称号を贈ったことは長くは続かなかったが、 画期的な事件であるという。

 

私は漠然と中国の各王朝は漢民族が主体であると思い込んでいたの で虚を突かれた思いがした。 興味深い点は著者が中国人のアイデンティティについて語るところ である。皇帝に属する人、つまり皇帝の修める都市に住んで皇帝が制定した漢字を使う人が中国人で 、出身の種族には関係ないという。 ほぼ単一民族に近い日本人にはなかなか理解できない感覚である。

 

著者が遊牧民の生活を描写している部分はとても興味深い。 年間の降雨量が少ない草原では一か所に定住すると家畜が草を食べ 尽くして生活が成り立たないという。 そこで越冬のための冬営地と避暑のための夏営地が決まっていてそ の間を移動するのが通常のようだ。 一緒に遊牧するのはせいぜい数家族で大きな組織や社会の統合は必 要がないが、穀物や絹織物は彼らの生活に不可欠で、 双方の交易が農耕民との境界で行われる。 しかし中国に強力な統一帝国ができると国境貿易は皇帝の直轄とな って遊牧民に不利になり、それが彼らの団結の契機になるという。 1206年の春、 ケンテイ山脈近くの草原に多数の遊牧部族の代表者が会議を開き、 そこでテムジンを最高指導者に選出し、チンギス・ ハーンの称号を奉った。 これに伴って中央ユーラシアの遊牧民キルギストルクメン人以 外はほとんどすべてがモンゴル人の社会組織に組み込まれ、 モンゴル人になったという。 遊牧王権は一度成立した王権を維持するためには君主は部下の遊牧 民の戦士に絶えず略奪の機会を与えるか、 財物を下賜続けてその支持を確保しなければ独立性の強い部下たち は他の君主に乗り換えてしまうので、 君主としては不断の征服戦争が必至であったという。

 

またモンゴル帝国の構造については匈奴帝国以来の遊牧王権的性格 を持つと言われ、ウルスと呼ばれる単位から成るとする。 ウルスは専属の遊牧民の集団とその家畜、 そして専属の定住民から財物や労働力を徴発する特権から成る。 創立者チンギス・ ハーンの時代から多くのウルスが存在して大ハーンでも直轄のウル スにしかその支配権は及ばなかったという。 そのようなモンゴル帝国を統合していたのはチンギス・ ハーンに対する人格崇拝と彼が天から受けた世界征服の神聖な使命 に対する信仰で、モンゴル帝国すなわちチンギス・ハーン、 それを「チンギス統原理」と呼ぶとのことである。

 

モンゴル帝国西夏,ウイグル、金、カラ・ キタイ帝国を次々に征服していく。 西方ではカザフスタン東部まで進出し、その後、 イスラム世界の征服に挑む。ホラズム帝国を征服した後、 キプチャク草原に入り、ポーランド王国ハンガリー王国オーストリアのウイナー・シュタットまで進出する。 ところがオゴデイ・ハーンの死去に伴いモンゴル軍は東経16度線 で退却する。現在のタタル共和国のタタル人、 カザフ共和国のカザフ人、 ウズベク共和国のウズベク人はすべてチンギス・ ハーンの長男のジョチのハーンと共に移住したモンゴル人の末裔で あるという。その後もモンゴルの侵略は西アジア、華中、 華南の中国に達し、東、北、中央、西のアジア、 東ヨーロッパの大陸部のほとんど全域が人類史始まって以来最大の 帝国に含まれていった。

 

そして遊牧民だけではなく、 ユーラシア大陸の定住民もモンゴル帝国の影響下に置かれ、 現在の国民の姿になったという。その例として、現在のインド人、 イラン人、中国人、ロシア人、 トルコ共和国トルコ人を挙げている。これらの国の前史には、 インドのムガール帝国、サハーヴィー朝イラン、 モンゴル式の制度を継承した明朝の中国、 ロマノフ王朝以前のロシア、オスマントルコがあり、 これらはすべてモンゴル人の侵攻に伴って成立した政体である。

 

著者は歴史を持つ二大文明、地中海文明中国文明はそれぞれ前5 世紀と前2世紀末に固有の歴史を生み出してから12世紀に至るま で互いに交流することなく独自に進展していたと叙述する。 それが13世紀のモンゴル帝国の出現によって、 中国文明はモンゴル文明に吞み込まれてしまい、 そのモンゴル文明は西に広がって地中海・ 西ヨーロッパ文明と直結することになった。 それにより二つの歴史文明は初めて接触し、 全ユーラシア大陸をおおう世界史が可能になったとする。

 

そして14世紀のモンゴル帝国の最盛期には人類最初の世界史を描 く歴史家が出現したとし、ラシード・ウディーンの名を挙げる。1 303年イラン高原のイル・ハーン・ ガザンはユダヤ人宰相ラシードに命じて宮廷所蔵のモンゴル語の由 緒正しい古文書に基づいてモンゴル帝国の歴史をペルシャ語で編纂 させたという。この『集史』は3巻からなり、 チンギス家を中心とした世界史で、第2巻にはモンゴル人以外の諸 国民の歴史も含まれ、旧約聖書のアダムから預言者に至る物語、 ムハンマドとその後継者のカリフたちのアラブ諸国ペルシャ、 セルジュク帝国、ホラズム帝国、中国、フランク、 インドなどの諸国民の歴史が叙述されているという。 それもコーランの言葉であるアラビア語ではなく世俗的な言語であ るペルシャ語を選んだのはこれがイスラム世界の歴史ではなく、 モンゴル帝国を中心とする歴史であると指摘する。

 

同じ14世紀に元朝の支配圏のチベットで仏教の僧侶によってチベ ット語で仏教の立場から見た世界史である『フラーン・デブテル』 が書かれた。著者はインド、中国、 モンゴルを含めた仏教的な世界史を産み出したのはモンゴル帝国の 出現を契機としてチベット人が広い世界に触れて歴史が世界史であ るという意識に目覚めたことが大きいと指摘する。 視点を変えてモンゴル人自身が世界史をどう見ていたかに目を向け ると、『モンゴル秘史』 というモンゴル語で書かれた物語があるという。また『蒙古源流』 はチンギス・ハーンの子孫であるサガンという人が1662年にモ ンゴル語で歴史を書き、 マンジュ語から漢文に重訳されてこの題が付いているとのことであ る。そしてチンギス・ ハーンの家系はチベット王家とインドの王家を通じて、 人類最初の王まで遡る地上で最も高貴な血統であると主張する。

 

著者はこのような14世紀から17世紀のモンゴル帝国で世界史を 書いた歴史家たちの出身地はイラン高原チベットモンゴル高原でこれまで歴史の著作の伝統のなかった地域であり、 ペルシャモンゴル語も歴史の言語ではなく、 地中海型や中国型の歴史の既成の枠に束縛されておらず、 当時の世界の実情を反映してモンゴル帝国のチンギス家の系譜を中 心としているとする。 ここに単一の世界史に到達する道のヒントとして中央ユーラシアの 草原の道を挙げ、 歴史のある二つの文明は中央ユーラシア草原の遊牧民が定住地帯へ の侵入を繰り返すことによって作り出されたとする。 ヨーロッパのインド・ ヨーロッパ語族はもともと中央ユーラシア平原からやってきて定住 した人々であり、 また中国以前の都市国家を支配した遊牧民や狩猟民もやはり中央ユ ーラシアから入って都市の住民となり中国を創った。 こうして二つの文明が成立したあと、 またしても中央ユーラシア草原からの遊牧民の侵入があり、 その度にそれぞれの文明の運命を変えた。 著者はその事情を以下のように説明する。 地中海世界の古代が終り、 西ヨーロッパ世界の中世が始まる契機になったのは、 文明の内部からの自律的な発展ではなく、 モンゴル高原から異動してきたフン人の活動がゲルマン人をローマ 領内に追い込んだ結果である。 中世から近代の移行にもモンゴル帝国の継承国家であるオスマント ルコの侵攻が関わっており、 大航海時代もそれまで知られていた世界の利権を大陸国家であるモ ンゴルとその継承国家が独占していたのに対抗して西ヨーロッパ人 が海洋帝国に活路を求めた結果であるとする。

 

 

また中国でも秦、漢時代の第一の中国滅亡の後、隋・ 唐時代の第二の中国は中央ユーラシアからやってきた鮮卑などの遊 牧民が建国した国家であった。 この第二の中国を圧倒し呑み込んだのは中央ユーラシアの一連の帝 国、トルコ、ウイグル、キタイ、金、モンゴルであった。 モンゴル帝国支配下で中国は徹底的にモンゴル化して元、明、 清朝の第三の中国が形成されたとする。 このモンゴル化した中国が普通に言われる中国の伝統文化で、 中国の皇帝と見えるものは、実はチンギス-ハンを原型とする中央 ユーラシア型の遊牧君主の中国版で、 中国は中央ユーラシア世界の一部となってしまい、 この第三の中国の性格は現在の中華人民共和国に現れていると説明 している。

 

著者は結論として、 首尾一貫した世界史を叙述しようとするならば文明の内在的で自律 的な発展ではなく、歴史ある文明を創り出し、 変形させてきた中央ユーラシア草原からの外的な力に注目し、 それを軸として歴史を叙述することであると主張する。 この枠組みでは13世紀のモンゴル帝国成立までの時代は世界史以 前の時代として、各文明をそれぞれ独立に扱い、 モンゴル帝国以後だけを世界史の時代として単一の世界を扱うこと が適当で、この本がそうした叙述の最初の試みであるとする。 このような著者の視点は斬新なもので、 現代中国が一帯一路政策を掲げてユーラシアに自国のための一大広 域経済圏を創ろうとしていること、 旧ソ連に属していたカザフスタンウズベキスタンが独自の道を模 索していることなどもこの文脈で見ると理解が可能になる。 私はこの本を読むことで、 現在の国際関係を以前よりも少し奥行きを持って眺めることができ るようになったと感じる。そして時間が許せば、 ヘロドトスの『ヒストリアイ』も手に取ってみたいと願っている。

 

 
 

伊藤若冲の若竹雄鶏、梅花雌鶏図について

 
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先日、愛知県美術館で開催されている相国寺展で、雪舟伊藤若冲、丸山応挙などの作品を鑑賞した。 中国の影響を強く受けながらも独自の境地を作り出した三人の画業 は際立っていた。 なかでも伊藤若冲の作品は数が多く見応えがあった。 本展示のみではなく美術館が所蔵している若冲の幾枚かの絵も併設 展示されていたが、 そのなかに印象に残った二幅の掛け軸があった。若竹雄鶏、 梅花雌鶏図である。幸いにして撮影が許されていた。

 

伊藤若冲は江戸時代中期(18世紀後半)に京都で活躍した画家で 、本展示の中に久保田米僊の描いた若冲居士像があった。 老年期の何かに憑かれたような厳しい眼差し、 それも人に向けられたものではなく、内省的なものであった。 錦小路の青物問屋の長男であったが40歳を過ぎ弟に家督を譲り、 以後生涯独身で、84歳で没するまで画業に専念したという。

 

この画を見て心惹かれたのは一気に引かれた水墨の線の伸びやかさ である。 天に向かってすっくと伸びた竹と雄鶏の尾のダイナミックな動きが 相まって、今にも画面から鶏が飛び出しそうな勢いを感じる。 これに対して雌鶏の図は梅の馥郁たる香りのなかでゆったりと寛い ているような雰囲気を醸し出し、二幅は好対照を示している。 二羽の鶏の頭部は小さく、実物を忠実に写生したものではない。 しかし、この小さい頭部が、 鶏の体のふくよかさを際立たせている。こうした表現は、中国の画や先人の模写から一歩進んで、 彼が独自に自然を観ることから感得したものであるように感じた。 事実、彼は数十羽の鶏を自宅で飼い、 その形や動きを研究したという。

 

この画の前に佇んでいると、 何時の間にか子供の時の思い出が鮮やかに蘇ってきた。

 

高度成長期以前の昭和30年代、 近隣地域では鶏を飼育していた家庭もあった。 我が家も農家ではなかったが、15、6羽の鶏を飼っていた。 鶏小屋は前庭にあり、簡単な板囲いと金網で作られていた。 中には幾段かの仕切り棚があって、 鶏たちは思い思いの場所を占めていた。 小屋の周りにはアワビの貝殻がそこかしこに針金に吊り下げて置か れていた。 貝殻の内側の真珠質の部分が日光に反射するのを利用した猫の侵入 防止策である。 わたしは学校から帰ると鶏の餌を作るのが日課であった。 道端に生えていたギシギシの葉を摘み取り、 細かく菜切り包丁で切り刻み、 乾燥したトウモロコシや米ぬかと混ぜるのである。 その餌を食べて鶏たちは育ち、卵を産んだが、 日によってその数は異なっていた。 まず年長者である祖父母に優先権があったのは、その当時、 儒教的な家庭道徳が生きていたためであろう。

 

年末の恒例行事は鶏一羽を捌いて大晦日のご馳走にすることであっ た。 祖父がこれはと目を付けた鶏が必死に庭の中を逃げ回る様を今もあ りありと思い出す。 その鶏の死に直面した悲痛な鳴き声は凄まじいものであった。 祖父は首尾よく捕まえると、鶏の首を一ひねりした。 そして羽をむしり取り、首を切り落とした。 井戸の周りの缶の上にその鶏の頭がひっそりと載っていた情景が今 も目に浮かぶ。鶏冠の赤が生々しかった。 その晩は捌いた鶏肉と腹卵のすき焼きであった。 腹卵はこれから卵として産み落とされるはずのブドウの房のような 黄味の連なりである。 子供ながらにその光景は何かしら物悲しい感じがしたものだった。 幼いながらも命の連続性が絶たれてしまった哀れを感じていたのか もしれない。

 

鶏を巡る幾つかの印象深い出来事がある。1959年伊勢湾台風が この地域を襲った。伊勢湾では記録的な高潮が発生し、 貯木場にあった木材が名古屋の市街地に流出して5000人を超え る死者を出し大惨事となった。幸い私の家は水害を免れたが、 最大風速40メートルを超える強風に煽られ、 母屋は屋根瓦の大部分が飛び散る被害であった。 鶏小屋もバラバラに空中分解し、 翌朝になると鶏たちの姿は影も形もなかった。しかし、 それから近隣の人が逃げた鶏を捕まえて持ってきてくれた。 以前の飼育数より増えて、 大人たちが首をひねっていたことを懐かしく思い出す。

 

また祖父の晩年には不思議なことが起こった。 彼は心臓喘息を病み、毎冬、命の危険に晒されていた。 往診の医者が何度も慌ただしく家を出入りしていた。 祖父の病状が悪化し、もはやこれまでかと家族が観念していると、 鶏小屋で鶏が死ぬのである。それも一度や二度でなかった。 私は子供心に祖父の身代わりになって死んだのだと信じたものであ る。その彼が亡くなり、 いつの間にか鶏たちもいなくなってしまった。

 

この二幅の画を観ながら、 子供の頃に聞いた雄鶏の耳をつんざくような鬨の声、 雌鶏のせわしなく餌を啄みながらコッコッと鳴く有様を改めて身近な ものとして感じた。 敗戦後の貧しい食生活のなかで鶏の卵や肉は大切なたんぱく源であ った。ペットや野生動物とは違い、 家禽は私たちの命を恒常的に繋ぐものとして存在していた。 まさに私たちは鶏の生命を頂いていたのである。

 

 
 

誰がために鐘はなるやと ジョン・ダン


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  誰がために鐘は鳴るやと

 

なんびとも一島嶼にてはあらず。
     

なんびともみずからにして全きはなし。
      

人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ)。本土のひとひら
      

そのひとひらの土塊(つちくれ)を、波のきたりて洗い行けば、
      

洗われしだけ欧州の土の失せるはさながらに岬の失せるなり。
      

汝(な)が友だちや汝(なれ)みずからの荘園の失せるなり。
      

なんびとのみまかり(死ぬ)ゆくもこれに似て、 みずからを殺(そ)ぐにひとし。
      

そは、われもまた人類の一部なれば、
      

ゆえに問うなかれ、誰(た)がために鐘は鳴るやと。
      

そは汝(な)がために鳴るなれば。

 

( ジョン・ダン / 大久保康雄訳 )


For Whom the Bell Tolls

No man is an island, entire of itself;
every man is a piece of the continent,
a part of the main.
If a clod be washed away by the sea,
Europe is the less,
as well as if a promontorywere,
as well as if a manor of thy friend's or of thine own were:
any man's death diminishes me,
because I am involved in mankind,
and therefore never send to know
for whom the bells tolls;
it tolls for thee.


John Donne
Devotions upon
Emergent Occasions, no. 17
(Meditation)
1624 (published)

 

 
この一節は16世紀から17世紀にかけてイギリスで生きたジョン ・ダンの瞑想録の一部である。彼は詩人としても有名で、 ソネットやエレジー、 諷刺や宗教詩など多方面にわたった詩を書いている。 写真の対訳集には残念ながらこの一節は掲載されていないが、 ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』 のタイトルとして引用されている。

 

 

最近、 この一文に思いを寄せることになった一つの出来事があった。

 

その日はこれ以上望むべくもない、爽やかな秋晴れであった。 数日前から、 私の住む地域にはこの朝から始まる自衛隊行事の準備のための空砲が鳴り響いていた。 当日はこの地方を統括する陸上自衛隊の師団司令部の観閲式がある との周知がなされていた。いつもの散歩コースを歩いていると、 やはり空砲の発射音が聞こえてきた。思わず足はそこへ向かった。

 

簡単なボディチェックを受けて入場すると、 観閲式はすでに終わっていて、 最新鋭の戦車や大砲などの武器のデモンストレーション、 敵の来襲を想定した迎撃と攻撃の訓練が展開された。 空砲が鳴るたびに観客から大きなどよめきが起こった。 小さな子供から老人まで、あらゆる年齢層が集まっていた。 なかには迷彩色カラーの洋服に身を固めた家族連れもいる。 皆笑いさざめきながらこの無料の大スぺクタルである戦闘シーンを 観ていた。 まるでサーカスのような祝祭的でどこか非日常的な空間に迷い込ん だようである。敵の来襲を察知してのドローンによる情報収集、 ヘリコプターから隊員の降下、地上からの機銃掃射、 一連の行動が滞りなく進んでいく。しかし、訓練ということで、 状況説明のマイクの音声にもそれほどの緊迫感はない。 観客の方も大きな音が鳴りますという警告があると、 慌てて歓声を上げながら耳を抑える。 私は目の前で繰り広げられることの重大性をほとんど認識できずに まるでのどかな子供の運動会を訪れたような錯覚に陥っていた。

 

小一時間もたったころであろうか、ふと脇に目をやると、 小柄な老女が夫に付き添われて立っていた。 夫は彼女の肩に手を置き、優しく語りかけている。 彼女はほとんど身じろぎ一つせず、 まるで彫像のように立っている。 彼女の周りには空漠とした別の空間が広がっていた。 彼女は自分の周りの何ものにも心を動かされていない。 眼は虚ろで何ものにも反応していなかった。 彼女の眼には諦念の哀しみのようなものすらなかった。 ただ洞穴のような目、それは顔に穿たれたただの洞であった。 脳の認知機能を失ったひとの無残な姿、それは魂の死であった。

 

その時、私の体に電撃が走った。すっかり失念していた、 この勇ましく鳴り響く機銃掃射の弾丸の先に横たわる累々たる死者 、それを彼女の存在は想起させたのである。 弾丸が引き起こすのは肉体の死、 彼女のような緩慢な死ではないが、同じ人間の死。私の周りには様々な死が満ちてきた。 死が通奏低音のように私の体を巡っていく。 秋の空に密やかな死が隣り合わせにひっそりと横たわっていた。

 

あらためて注意深く隊員たちの姿を眺めると、 武器を前にしての若い隊員たちの顔にはどこか戸惑いのようなもの が感じられた。実戦を潜り抜けていない若者たちの初々しさ、 ああ、 彼らがこのままのなにかしらたどたどしい気配を持ち続けてほしい 、 いつも街のスーパーでカゴの中に思案しながら品物をいれているつ つましやかな彼らの姿、それを思うとき、 母になったことのある私はそのことを痛切さをもって願う。 もし彼らの戦死が報じられるような事態になればこの町の雰囲気は 一変するであろう。 今のように平穏な気持ちでここに住み続けることはできないのだと いう暗い予感がある。

 

そしてこの詩が胸に迫ってくるのである。

だれが亡くなってもこの私自身が欠けることなのだ。 この私は人類の一部なのだから。それゆえ、 誰がために鐘は鳴ると問うには及ばない。 他人を弔う鐘は汝のためのものなのだから。

 
 

西脇順三郎の詩


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ギリシャ的抒情詩

 

    天気

 

 (覆された宝石)のやうな朝

 何人か戸口にて誰かとささやく

 それは神の生誕の日。

 

 

    雨

 

 南風は柔い女神をもたらした。

 青銅をぬらした、噴水をぬらした、

 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、

 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。

静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、

この静かな柔い女神の行列が

私の舌をぬらした。

 

 

  太陽

 

 カルモジインの田舎は大理石の産地で

 其処で私は夏をすごしたことがあった。

 ヒバリもゐないし、蛇も出ない。

 ただ青いスモモの藪から太陽が出て

 またスモモの藪へ沈む。

 少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた。

 

 

これらの詩は西脇順三郎の日本語による最初の詩集ambarva liaの中の3篇である。 この詩に初めて出会ったのは高校一年生の現代国語の教科書で、 今を遡ること半世紀以上も前のことである。 私の記憶に間違いがないならば、 少しくすんだオレンジ色の布クロスで装丁された手触りの気持ちの 良い本であった。

 

それまで西脇順三郎という名には馴染みがなかった。 初めてこれらの詩に触れた時に感じたものは何とも言えない解放感 である。 ひとつひとつの言葉がそれまで慣れ親しんできたそれとはまるで違 う別の輝きを持ったものとして立ち上ってきた。 新しい世界の扉が開いて、 自分がそこに招き入れられたように感じたのである。 私にとって本は子供の頃から身近なものであり、 様々な物語に親しんでいたが、 これらの詩は使い慣れた身近な日常の言葉が全く別の意味と色彩を 帯びてそこにあるということを実感させてくれた。

 

「(覆された)宝石のやうな朝」「 この静かな柔い女神の行列が私の舌をぬらした」「 少年は小川でドルフィンを捉えて笑つた」 このような詩句は当時の私の精神と身体の双方に働きかけた。 ちょうど思春期から青年期に差し掛かっていた私の官能の奥深い部 分を刺激し、呼び覚ました。自分では制御できない暗い鬱屈から 解き放され自由に呼吸できるようになった感覚、 それは生きる喜びに繋がるものであった。 日が昇り陽光が眩しい朝、それは私にとって(覆された)宝石のよ うな朝であり、 南風のもたらす雨は私の中にあった外界に対する警戒心を溶かして いった。 そしてドルフィンの青白い背中と初々しい少年の絡み合う鮮烈なイ メージ、詩は日常の言葉に新しい意味を与え、 そのもともと持っていた意味を大きく拡張する極めてクリエイティ ブなものであることを知ったのである。

 

そして数年前、改めてこの詩に再会する機会が訪れた。 当時の私は様々なストレスで心身共に消耗が激しかった。ある時、 散歩の途中でほんの些細な野ばらの棘が左の人差し指に刺さった。 免疫力が低下していたのか、 いくら抗生剤で治療してもその炎症は収まらず、半年後、 その左手の全体が腫れあがって手術以外の選択肢がなくなってしま った。入院し手術を受けて暫くすると、 一日二回の抗生剤の点滴治療が中心となり、 残りの時間には病院に隣接する図書館に時々抜け出しては気分転換 を図ることができた。 そしてその書架に西脇順三郎コレクションを見つけたのである。 彼の描いた絵が本の表紙を飾る白い美しい装丁の本であった。 早速、始めの一巻を手に取って、 再びあの懐かしい詩の数々を見出すことができたのである。 弱った心と体にたちまちその詩句は染み渡っていった。 ひとつひとつの細胞が静かに漲り、 生きる活力を取り戻していくことが実感された。 体の中で枯れかけていた命の泉が再び力強く蘇ってくる感覚を久し ぶりに味わうことができたのである。 南風がもたらす柔らかい雨を全身に浴びて心身がほどけていくよう な感覚、それを感じたことが回復への大きな一歩であった。

 

 

NHKスペシャル封じられた“第4の被爆”―なぜ夫は死んだのかー を見て

 


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9月15日に放映されたこの番組の内容は今まで聞いたことのない衝撃的なものであった。冒頭のナレーションは、広島、長崎、ビキニ環礁における漁船の被爆に続く「第4の被爆」があったことを告げ、これを私たちの社会は長い間忘却してきたと語る。しかし、番組が進むにつれて、これは忘却ではなく長い間不都合な真実が隠蔽されていたという事実が明かされていく。

 

 

1958年7月、海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の2隻がアメリカのビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇、被爆した。その1か月後、厚生省は乗員113名に放射線障害は認められないとしたが、1年後の1959年8月3日、「拓洋」の首席機関士であった永野博吉さんが急性骨髄性白血病で亡くなる。1960年に彼の遺体検査が行われるが、当時、厚生省の協議会は、被ばく線量は「微量」で死因との直接の因果関係は「現在の医学の立場からは困難」との結論を出したという。

妻の澄子さんは夫が亡くなった直後に病院で、国の役人から「放射線量は微量であり、子供に遺伝の心配はない、アメリカが絡んでいる問題なので、慎重に秘密を守るように」という趣旨のことを言われたという。それを彼女は番組で「悔しい」という言葉でその無念の気持ちを表現していた。公務災害も認められなかったので国家から金銭の賠償はなかったという。

 

番組の取材は被ばく線量が本当に微量だったのかを検証していく。アメリカの公文書から、当時二隻が緊急寄港したパプアニューギニアラバウルで乗員を診察したアメリカ核実験本部の軍医が実施した血液検査から多くの乗員の急性放射線症の発症を認めていた事実を突き止める。また大きな手掛かりとなったのが、たまたま乗員の一人が遺していた歯であった。歯は時間を経ても被爆の痕跡を正確に残すことが可能であるという。その結果の被ばく線量は143シーベルトで、広島の爆心地から1.8キロ以内で被爆したのと同等の線量で、明らかに人体に影響の出るような被爆であるという。

 

このように被ばく線量が「微量」とされた背景にはなにがあったか。取材班は当時のアメリカの核戦略、日米の安全保障問題に焦点を当てながら、地道な取材を続けていく。主にはアメリカの公文書館に保管されている機密を解除された文書を読み解き、それを裏付ける証拠を収集していく。その有様は観ている者にとってスリリングでさえある。

 

1954年の第五福竜丸ビキニ環礁での被ばくは国民の間に広範な反核の運動を巻き起こした。当時アメリカはこれによってその核戦略の計画が頓挫するのではないかという危機感を抱いたという。そこで日本国内で一般市民の核アレルギーをなくすための教育の必要性を痛感したアメリカは被爆の「許容線量基準」を制定することを決断し、東大をはじめとする日本の科学者に助力を仰いだ。それに協力した東大教授の54年から63年にかけての手紙をこれまたアメリカの公文書から読み解いている。番組ではこの基準作りに協力した東大教授の手紙が紹介されていた。「この基準はアメリカの核実験のために作ったものであること、そして制定のもう一つの理由は原子力が人類に益があることを認め、世界の核エネルギー推進の潮流に遅れないよう日本国民に覚悟を求めるため」であるという内容である。この基準は1956年5月4日にできたが、同じ日にアメリカは太平洋で実験を再開し、再び核戦略を軌道にのせたという。番組はここから日本が核エネルギーに依存した経済や暮らしに移行することになったと述べている。

 

この「許容線量基準」の制定によって日本の反核感情が一定程度沈静化したと思われた1958年に起こったのがこの「第4の被爆」であった。この問題で再び日米関係を揺さぶられる事態を防ぐために両国が図った解決が当時取られたものであったという。

 

そしてこの「第4の被爆」が日米両政府にとって不都合な真実であったもう一つの重大な理由、それは日本の安全保障の根幹をなす問題と大きな関わりを持つ。1958年7月から日米安全保障条約の改定交渉が始まっていたが、この事件の発生はもっと不都合なタイミングであったという。交渉に携わった東郷文彦を父に持ち、そして自身も外務省の高官であった人物は「アメリカに軍事、経済を依存するためには日本は親米であることが第一義的に求められた。アメリカに賠償を請求し、異を唱えることは避けねばならなかった」と番組の中で語っている。国家の政策遂行のためには一個人の人権を顧みることは選択肢の中になかったということになる。

 

 

ここで思い出すのはビキニ事件70年を振り返るNHK WEB サイトの今年8月3日の記事である。燐光群の『わが友第五福竜丸』でも触れられていたが、第五福竜丸だけではなく当時ビキニ環礁周辺地域でのべ992隻近くの日本漁船が操業していた。その被爆の事実は差別を怖れて長い間口外されることが少なかったという。ところが高知で高校生の聞き取り調査で実態が明らかにされていく。事件から実に60年後、公文書開示請求で述べ556隻分の放射能検査や漁船員の血液や尿検査記録が開示されたことで、2016年に船の元乗組員やその遺族が日本政府などに対して被害の救済を求め、現在二つの裁判の審理が続いているという。

 

そしてさらに驚くべき事実が記事のなかで明かされている。

ビキニ被爆事件の翌年、1955年1月、日米両政府はこの解決を図り、アメリカは200万ドル(当時の日本円で7億2000万円を支払い)という文書を交わしたという。当時24億円の被害があったとされたがその3分の1以下で日米間の政治決着が図られた。そしてその“ビキニ事件の解決”の裏で、第二次世界大戦で戦犯になった日本人の解放を求める密約が交わされていたというのだ。

 

 

ところで、最近、ネット上で公開されている一つの論文に目が留まった。国立研究開発法人日本原子力開発機構の辻村憲雄氏の『測量船「拓洋」が遭遇した核実験フォールアウト』と題する論文である。2020年8月15日発行とあるので、裁判が提訴されてから公表されたものである。

 

論文を読んでみると、次のような研究の目的が述べている。「わが国における雨水中全β放射能の観測は,1954 年にアメリカ合衆国によってビキニ環礁で行われた核実験を起源とする放射性降下物(フォールアウト)の測定に始まる。この測定の場合,雨水に含まれる放射性核種の内訳を厳密に求めることはできないが,それが核実験起源であることが分かっていれば,生成される放射性核種の内訳はよく知られているし,また,なによりも測定方法 が単純であるという利点がある。(中略) 1958年に海上保安庁の測量船「拓洋」が赤道海域に向かう途中で 遭遇した核実験フォールアウトによる事例は,フォールアウトを含む雨水の過去の最大観測であるというだけではなく,ビキニ環礁の近海を航行中に核実験フォールアウトに被災した とされる船舶についてその被災の程度を推測する際の参考になるとも考えられるので,当時の観測データをもとに単位面積当たりの全β放 射能を評価することを主たる目的により詳細な分析を行う」

 

そして論文は、核実験の概要と「拓洋」の被災状況を記し、緊急に避難したラバウルでの乗員のアメリカ核実験本部の軍医の診察結果及び船体の汚染検査は異常なしと今までの政府見解を追認した形になっている。詳しい分析の検討は専門家に譲らねばならないが、論文は雨水の観測データから「乗員の外部被爆による実効線量は100ミリシーベルトを大きく下回ると推定される」とし、当時の政府見解をこれまた追認している。

 

結論部分では、「本結果は,核実験フォールアウトを含む雨の 最大観測の歴史的事例のとりまとめとしてだけではなく,ビキニ環礁近くで行われた核実験によって同じ緯度帯の海域を航行していた船舶の フォールアウト被災の程度を推定する際の参考 にもなることが期待される」とある。

 

このように論文のはじめと終わりの部分で、「ビキニ環礁で航行していた船舶のフォールアウト被災の程度を推定する参考にもなる」と繰り返し言及していることから、論文が二つの裁判を意識して書かれているようにも考えられる。

 

 

先に引用した、番組の中で政府の元高官が語っていた「アメリカに経済的、軍事的に依存している日本は親米と見なされなければならず、そのためには日本人の人権にかかわる事態が起きてもその是正をアメリカに要求することは控えなければならない」という論理は政府の方針として今に続くもので、戦後から今に至る日米関係を規定するものと言える。アジア、太平洋地域で大国の対立が先鋭化している現在の状況ではこの傾向はますます強まっていく様相を呈している。

 

しかしながら沖縄の米兵による婦女暴行事件や横須賀基地の排水から高濃度の有機フッ素化合物(PFAS)が検出された問題が日米関係に大きな影を投げかけていることも事実だ。後者についてはアメリカ側から「日本には排水に含まれるPFOSやPFOAの法的な基準がないため検査する必要がないし、情報提供する義務もない」との説明があったとある。(NHK NEWS WEB 5月24日)

 

このような現状を鑑みると、『第4の被爆』の問題は一人永野さんの問題ではない。この事件は、私たちが国の政策の下で人権を制限される事態が容易に起こりうることを示唆している。最近の長崎の「被爆体験者訴訟」でも国は長崎地裁の一部の被爆体験者を認定した判決を不服として控訴を決めた。また民間人空襲被害者や沖縄戦を始めとする地上戦の被害者に対する国の謝罪と救済もまだ道半ばのようである。そして今、新しい「戦前」という言葉が現実感を持って語られ始めている。戦争は最大の人権侵害であるが、それを避けるためにも、今なお脅かされている私たちの人権の状況に目を向けることが大切なのではないだろうか。