痣 第12回



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学校内の図書室は新設校のせいであろうか、蔵書数はあまり多くない。生徒の自主的な活動である図書委員会もそれほど活発でもなく、委員による推薦図書の紹介や読書会の開催がなされている様子は見受けられなかった。沢木は図書室の隅の机に今印刷したばかりの用紙を並べていった。ふと目を上げると、窓際に見覚えのある生徒が座っているのに気づいた。彼は沢木と目が合うと読んでいた本を手に持って近づいてきた。間近で見ると面長な顔にはうっすらと柔らかな産毛が生えており、まだ大人になり切っていない幼さの片鱗が残っていた。個人差はあるが高校二年のあたりを境にして蛹が蝶に変身を遂げるように急速に大人へと物腰全体の雰囲気を変えていく生徒が多い。彼はその変化の予兆を感じさせるどこか壊れやすい柔らかな蛹のような趣があった。

「今、先生が授業で取り上げている「ソクラテスの弁明」を読んでいたのです。父親の本棚にあって、本も薄くて読み易そうだということでこの作品は今までに二、三回読んだことがあるけれど。今回先生に紹介してもらってひさしぶりにまた読んでいるのです」

裕也ははにかんだような微笑を浮かべながら答えた。

「今読んでいたのは彼が死刑判決をうけて皆が退席していくなかでその人びとに向かって話しかけるところです。死を悪いことだとみなすことは正しくない、『私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。我ら両者のうちいずれがいっそう良き運命に出遭うか、それは神よりほかに誰も知るものがない』という言葉にいつもながら頭をガツンと殴られるような気分になるのだけれど。小さい頃から僕は死ぬことが怖くて夜中に目が覚めるといつも震えていたんです。それがあるときこのように言い切っている人間がすでに二千年以上前にいることに心底驚いてしまって」

彼は眼の中に驚嘆した時に人が見せるどこか放心したような光を宿していた。

「そうだね。僕も子供の頃、同じように夜を感じていたものだよ。大人になってからも時々同じような疑問に取りつかれて寝損じてしまうことが今でもあるけれど。僕にもこのソクラテスのように言い切る勇気は今もないな」

沢木は自分でも珍しく率直な気持ちを込めて話していた。この学校に赴任してきてからどことなく緊張して他人に対して身構えることが多かったが、不思議なことにこの生徒に対してはそれが少ないことに気づいた。

「僕は体を動かすのは好きでバレーボール部に所属しているけれど、こうやって図書室で本を読む時間がないと自分が糸の切れたタコのようにどこへ行ってしまうのかわからなくなって恐ろしくなることがあるんです。」裕也は立ち上がりながら言った。その時、沢木は眉間を微かに寄せて自分の顔をひたと見つめる裕也の様子にはなにかしら人を寄せ付けない憂いの翳があることに気づいた。翌日の放課後、沢木は体育館のネットのそばでアタッカーのためにトスを上げている裕也の姿を見たが、その屈託のない笑顔からはあの図書館での言葉を連想することは難しかった。

 

 次回に続きます