痣 第15回

このところ定期テストの採点などで忙しく沢木は美術室から足が遠 のいていた。授業後、 久しぶりに疲れた頭を癒そうと美術室に向かった。 ところがドアを開けようとしても鍵がかかっていることに気づいた 。しかしなんとなく中からは人の気配が感じられる。 …

痣 第14回

よく晴れ渡った空にはむくむくと湧きあがるような雲があったが、 盛夏に比べると形は小さかった。 時ならぬ先日の台風のおかげで校庭のイチョウの木から若いギンナ ンの実が落ちている。生徒の通学用の自転車に踏みつけられて、 黄色味がかった若草色の銀杏…

痣 第13回

夏休みを間近にひかえた日射しの強い一日であった。朝の職員室にはなんとなくざわめいているような落ち着かない雰囲気があった。それがどこからくるのか沢木にはわからなかったが、朝の打ち合わせで生徒の服装検査があることを教頭から知らされた。月曜日の…

痣 第12回

学校内の図書室は新設校のせいであろうか、蔵書数はあまり多くない。生徒の自主的な活動である図書委員会もそれほど活発でもなく、委員による推薦図書の紹介や読書会の開催がなされている様子は見受けられなかった。沢木は図書室の隅の机に今印刷したばかり…

痣 第11回

沢木は二年生の倫理社会の授業のなかで時々生徒に文章を書かせていた。レポートであったり感想文であったり形式は様々であった。二、三年生は成績順のクラス編成であったが、優秀なクラスでも紋切り型や、予定調和的な文章が多かった。几帳面な文字の後ろに…

痣 第10回

一学期は沢木にとっては目新しいことばかりでまたたく間に過ぎていった。職員室でそれとなく見聞きするところによると、受験に関係する教科では到達度を測るために小テストが繰り返されているようであった。教科主任の川口はよく自分のテストで成績の良くな…

痣 第9回

戦前に開催された博覧会の跡地に作られた都市公園の緑の中に中央図書館はあった。二階へ上る階段の途中に踊り場があり、半円形に外に向けて張り出した大きなガラス窓があった。窓の外を見ると高さが二メートルを超すと思われるハナミズキが白い花をつけてい…

痣 第8回

新学期の授業が始まって一カ月が経過した。 塵ひとつなく磨き上げられたリノリウムの廊下を歩いていると、 いったい自分はどうしてここにいるのだろうという不思議な感じに 襲われるのであった。 渡り廊下の窓から外をみると運動場のすぐ脇には田畑が広がっ…

『死の家の記録』を読んで

最近、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読了した。 今まで読んでいた彼の作品『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』 の中で言及されているテーマがこの作品の中に先駆けとして現れて いることに気づかされた。これは彼の書いた創作作品である。 妻を殺害し…

痣 第7回

「君は数年ほかの社会を経験してきたというじゃないか。どうだ、ここでうまくやっていけそうか」 久米はだいぶ酔っているらしくその言葉には絡みつくような悪意が感じられた。 「そうですね。まだ日が浅いので何とも言えませんが。でも上からの指示が絶対と…

痣 第6回

その後はオリエンテーリングに移り、班どうしの競争になっていった。あくまで班員は班長の指示、判断に従うことが求められ、初めは無邪気に騒いでいた生徒たちも次第に周りを窺うような伏し目がちの眼になり、表情もあいまいなものになっていった。その様は…

痣 第5回

四月に入り、校門脇の桜は満開であった。植えられてから日が浅いため、幹は細かった。近隣の県営の公園施設で、新入生のために二泊三日のオリエンテーション合宿があると聞いたのは入学式の日である。校務主任はそれに先立ち、参加する新しく赴任してきた教…

痣 第4回

夜になり、雪はいよいよ激しく降りしきっている。 近くを走る車の警笛が聞こえたが、 それはまるで閉ざされた世界の向こう側から聞こえてくるようであ った。 台所のテーブルの上にはありあわせの材料で作られた夕食が 並んでいた。沢木は缶ビールの蓋を開け…

痣 第3回

数日後、それは三月末の季節外れの雪が降りしきる日であった。 体育館には次々と親たちに付き添われた生徒たちが入場していた。 彼らが外から身に纏ってきた春の雪はたちまち解け、 床に薄い水たまりを作った。 職員たちはモップを持って入り口付近の濡れた…

痣 第2回

そこは数年前に新設された県立高校で、 沢木は四月から勤務することになっていた。 敷地内に足を踏み入れると、 先ほど遠目から見た無愛想な四階建てのコンクリートの建物があっ た。玄関を入ると両脇にガラスケースがあり、 その中には運動部の活躍を示すト…

『フランケンシュタイン』を読んで

物語は北極海の探検に向かうウオルトン船長が姉のマーガレットに 送る書簡の形で始まる。彼はその航海の途中にヴィクター・ フランケンシュタインと会い、彼の話に引き込まれ、 彼の数奇な運命を記録することを決意する。 全編を読んで心に迫って来たのは、 …

痣(あざ) 第1回

暫く『痣』と題した短編を綴ります。お読み頂ければ幸いです。 電車が川に架かる鉄橋を渡る時は、 振動と轟音が一段と激しくなった。 折からの降り続く雨で、川の水は勢いを増している。 この私鉄の終点は山ふところに拡がっている江戸時代から製陶業が 盛ん…

樹 最終回

侑子はこの手紙を何度も読み返した。 あれから十年経った今も思い出したように取りだして眺めることが ある。 初めてこれを読んだ時は早川を失うということを現実感をもって捉 えることができなかった。 これからも彼は手の届くところにいるという根拠のない…

わが友、第5福竜丸

燐光群の演劇「わが友、第五福竜丸」を観た。 劇場に足を運んで演劇を観たのは本当に久しぶりであった。 現代の喫緊の課題である核を巡る問題、 それと深く繋がる第五福竜丸事件という重いテーマを演劇という芸 術がどのように表現するのかという点に大きな…

樹 第28回

早川からの手紙が届いたのはそれから半年後のことである。 突然約束を守ることなく姿を消したことについてまず初めに謝って いた。そして妻があの日心筋梗塞で倒れたこと、 集中治療室に付き添っていたため連絡ができなかったことを詫びて いた。一命をとり…

樹 第27回

木枯らしが数日前に吹いて、 紅葉したナンキンハゼの葉を一夜にして落葉させてしまった。 侑子は早川と待ち合わせをしていた。 先ほどから一時間ほど本を読みながら喫茶店で待っていたが彼は現 れなかった。携帯で連絡をとろうとしても通じることはなかった…

樹 第26回

侑子は職場からの帰り道、橋の上から川面を時々眺めるのだった。 河川の水量を調節するために作られた堰の周辺を見ると、 白い鳥がいることに気がついた。コサギだ。 堰の周辺は段差になっており、 そこに集まる魚をめがけて狩りをしているらしく、 ときどき…

樹 第25回

アトリエでの時間が終わると、 侑子は早川の車に乗せてもらって近くの丘陵地の雑木林を散策する ことがあった。 丘陵地からは今はもう役目を終えたテレビの受信塔や最近できたツ インタワーなどの高層の建物が望見できた。 「 東京タワーが朝鮮戦争の戦車の…

樹 第24回

「ところで部長だった水谷君は元気にしているのかしら。時々彼のアトリエに行っているんでしょう。たしか彼が屠殺場に行って牛の頭を貰ってきてそれを煮詰めて頭蓋骨にして部室に持ってきたことがあったわ。皆でそれをテーマに油絵を描いた」 「あのことは良…

樹 第23回

夕暮れが早くなっている。侑子は高校時代の友人の扶美とレストランで食事をしていた。金曜日の夜ということで、店内は活気に満ちている。一人になってから時々同じく夫が単身赴任の身軽な扶美と会うようになった。彼女の子供も独立しており、夫がいることを…

樹 第22回

テレビから衛星放送の海外ニュースが流れている。侑子はそれを聞きながら朝食をとるのが習慣であった。前夜のうちに用意しておいた季節の野菜スープ、それにヨーグルトとパンをテーブルに用意し、時間があればそれに卵料理を付け加えることもあった。玉葱入…

樹 第21回

「あなたの撮った鳥の写真を夫から何枚かを見せてもらいました。その時の彼の雰囲気からなにかを感じたの。彼はウソをつけない人なのよ。彼の表情をみれば何を考えているかがわかるわ。夫が心を惹かれている人を見てみたくなったのです」そう言いながら彼女…

樹 第20回

侑子が妻に会ったのは都心のパーラーである。週末の土曜日であった。その数日前に「お久しぶり、お元気ですか」と電話がかかってきた。なぜ彼女はわざわざ連絡をとってきたのであろう。私たちの関係を知っているのだろうか。その時はどういう言い訳もできな…

樹 第19回

しばらく二人は男たちに追いつこうと言葉少なに歩みを進めた。 早川と杉浦はアカマツの近くで女たちを待っていた。 この近くにはネジキやアラカシ、アセビ、 ソヨゴなどが生えていた。 ソヨゴは秋になると赤く色づくが今は青い実を風に揺らしていた。 その葉…

樹 18回

林の中にはエナガなどの小鳥も多数いるようだった。侑子はカメラを向けようと試みたが鳥の動きはすばやくとても太刀打ちできなかった。鳥たちは木立の中を行ったり来たりを繰り返し、上を向いて眺めていると首が痛くなってくるのである。侑子は鳥を撮ること…