2023-11-01から1ヶ月間の記事一覧

樹 第21回

「あなたの撮った鳥の写真を夫から何枚かを見せてもらいました。その時の彼の雰囲気からなにかを感じたの。彼はウソをつけない人なのよ。彼の表情をみれば何を考えているかがわかるわ。夫が心を惹かれている人を見てみたくなったのです」そう言いながら彼女…

樹 第20回

侑子が妻に会ったのは都心のパーラーである。週末の土曜日であった。その数日前に「お久しぶり、お元気ですか」と電話がかかってきた。なぜ彼女はわざわざ連絡をとってきたのであろう。私たちの関係を知っているのだろうか。その時はどういう言い訳もできな…

樹 第19回

しばらく二人は男たちに追いつこうと言葉少なに歩みを進めた。 早川と杉浦はアカマツの近くで女たちを待っていた。 この近くにはネジキやアラカシ、アセビ、 ソヨゴなどが生えていた。 ソヨゴは秋になると赤く色づくが今は青い実を風に揺らしていた。 その葉…

樹 18回

林の中にはエナガなどの小鳥も多数いるようだった。侑子はカメラを向けようと試みたが鳥の動きはすばやくとても太刀打ちできなかった。鳥たちは木立の中を行ったり来たりを繰り返し、上を向いて眺めていると首が痛くなってくるのである。侑子は鳥を撮ること…

樹 第17回

あの日、森の中は雨上がりで木々の香りが際立っていた。演習林はハンノキやケヤキ、ナラなどの高木で鬱蒼としている。 「久しぶりだな、ここに来るのは。学生時代以来だ」早川が木漏れ日に目を細めてつぶやいた。「そうね、学期に一度か二度はここで演習形式…

樹 第16回

侑子の両親は小さな板金工場を経営していたが、 彼女が高校生の時に破産に追い込まれた。 大学に通っていた頃は奨学金の支給を受けていた。 今にして思えば薬学部はどちらかというと経済的には困らない学生 が多かったようである。 だから奨学生はほんの数人…

樹 15回

部屋に戻って見ると早川は数人に囲まれていた。「ボルネオでは」という彼の声が聞こえてきた。どうやら以前仕事で滞在したことのあるボルネオ島のことが話題になっているらしい。彼は若い頃ボルネオの木材を商社マンとして日本に輸入する仕事に携わっていた…

樹 第14回

杉浦は知的トレーニングをつんでいる男らしく無駄のない言葉で自分の思いを伝えていた。しかし率直なもの言いの中に巧まずして女を誘うような小さなトラップが仕掛けてあるのかもしれないと侑子は感じていた。言葉がとぎれると杉浦はわずかな含羞をにじませ…

樹 第13回

人が次々と入ってくる。 侑子が飲み物を持ちながらしばらく移動し、 他の人達の話に耳を傾けていると杉浦が近くにいることに気がつい た。彼は水の入ったカップをもって静かに侑子を見つめていた。 彼は「これから車を運転しなければならないので」 とカップ…

樹 第12回

ある日マンションの二階にあるアトリエを解放してパーティが開かれた。描きかけの絵が壁に立てかけられている。会費制で市内のホテルから料理を運んでもらう立食形式の会である。アトリエには六時頃から三々五々人々が集まって来ていた。それぞれが知人や家…

樹 第11回

数日後二人はホテルの一室にいた。外は激しい冷たい雨が降っており、その雨の中に部屋全体が沈み込んでしまいそうであった。 それは静かな湖面の対岸に立っている二人がゆっくりとお互いに向かって歩いて行くかのようにして始まった。近づくにつれて胸の高鳴…

樹 第10回

しばらくすると侑子はアトリエ仲間と信州の乗鞍へ行った。 秋も深まった時期で、往路は雪も降りだし、 紅葉の上に降り積もった。 鳥たちは今頃どうしているのだろうかと侑子は心配になった。 次の日は幸い雪も止んだ。 林の中を歩いて行くとダテカンバなどの…

エミリー·ディキンソンの詩に寄せて

Emily Dickinson 《 Hope is the thing with feathers 》 “Hope” is the thing with feathers – That perches in the soul – And sings the tune without the words – And never stops – at all – And sweetest – in the Gale – is heard – And sore must be…

樹 第9回

秋になっていた。 空を見上げると雲は夏の入道雲から秋の鰯雲やスジ雲に変っている 。この雲も時々刻々と変化し、 空は見上げるたびにその表情を変える。 秋空の青は透明でなにかしらの悲しみを感じさせると侑子は感じて いた。彼女は街の南東にある丘陵地の…

樹 第8回

侑子がキビタキの絵を出展した同じ展覧会には、早川がカラタチの木の連作を何点か出していた。季節ごとにこの植物がどのように姿を変えていくのか、それを丹念に追った彼の絵は来場者の衆目を集めていた。春、緑のアクリルの絵の具を流したような緑色の茎か…

樹 第7回

先日はゴンズイという木をあらためて知った。実に奇妙な名前である。これは象牙のような触感をもつ赤い美しい実がなっていた。小さな卵のような形の葉には周りに鋸のような切込みがあり、実をつけている枝も薄い赤に染まっている。そしてリンボク、この木も…

樹 第6回

侑子がアトリエで樹木を描くことの難しさについて話をすると、次週に早川が樹木図鑑をもってきた。「もう使わないから君が持っていたらいいよ」と渡しながら言った。しかし、それは新たに購入したものであることは明らかだった。ページの角が新しく、繰ると…

樹 第5回

仕事から帰ると部屋の入り口にあるその絵に出会う。そうするとその時の嬉しさがまざまざと蘇えり、まるであの新緑の坂道にまた迷い込んだような心地になった。そして仕事の疲れが一瞬にして洗い流され、自分がまた新しく再生するような清々しい気持ちが体に…

樹 第4回

侑子は大手のドラッグストアの調剤薬局の薬剤師であった。十数年前に夫は交通事故で亡くなっていた。横断歩道を通行中に右折してきた乗用車に轢かれたのである。事故当時はまだ一人娘も小学生で、父親を亡くしたショックも大きかった。幸いにしてその娘も結…

樹 第3回

主宰する水谷は美大をでて美術系の短大の講師をしていた。子供が二人いたが下の子供が知的障害でいろいろ苦労しているようであったが、アトリエではその話はほとんどなかった。もっともその子供が生まれた頃、風呂に入れるために夜は少し早く帰宅しなければ…

樹 第2回

あの頃、侑子は高校の先輩の水谷が主宰する水彩画のアトリエに通い出したばかりだった。それはマンションの二階にあり、十五名ほどの社会人が水彩画を描いていた。彼は特別なことはなにも教えなかった。ただ水彩画のための用紙や絵の具、水の効果的な使い方…

樹 第1回

暫くの間、『樹』と題した短編を綴ります。お読み頂ければ幸いです。 侑子はときどき十年前のあの出来事を思い返すのだった。 自分の心の中に秘やかに育ちつつあった一本の木、 それが突然倒れてしまったあの日からの時間はそれまでとは異なっ ていた。 しか…

詩歌それは言葉の宝石

ヴェルレーヌの詩,『落葉』上田敏訳 と 与謝野晶子の短歌に寄せて 落葉 秋の日のヰ゛オロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し。 鐘のおとに胸ふたぎ色かへて涙ぐむ過ぎし日のおもひでや。 げにわれはうらぶれてここかしこさだめなくとび散らふ落葉か…