樹 第22回


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テレビから衛星放送の海外ニュースが流れている。侑子はそれを聞きながら朝食をとるのが習慣であった。前夜のうちに用意しておいた季節の野菜スープ、それにヨーグルトとパンをテーブルに用意し、時間があればそれに卵料理を付け加えることもあった。玉葱入りのオムレツやハムエッグ、あるいは簡単に卵を茹でただけの時もある。


画面をみていると本当にこの世界は戦争と暴力に満ち溢れているといつも感じるのだった。海外放送のレポートは記者が現場に行って直接インタビューをし、自らの言葉で批評的にコメントを語ることが好ましかった。

 

パンにバターを塗っていると、突然、「彼はチェホフとアガサ・クリスティが好きでした。今、彼の心は憎しみにあふれています」というフランス人記者のコメントが耳に飛び込んできた。中東の戦闘で家族を奪われたというその男性の言葉を聞いて侑子は涙が込み上げてきた。久しく泣くことなどなかったのに。彼女もチェホフとアガサ・クリスティが好きだった。毎日の生活を彩っていた言葉がまるで憎しみの洪水に押し流されてしまうようにして消えてしまったのだ。それらの言葉をふたたび彼は取り戻すことができるのだろうか。奔流のように言葉を呑みこんでいく暴力に暗澹たる思いがあった。

 

その時、彼女は夫が亡くなったときのことを久しぶりに思い出していた。突然、当時勤務していた病院の薬剤部に警察から電話があり、夫が交通事故にあって救急搬送されたがほぼ即死状態で死亡が確認されたということを知らされたのである。搬送された病院に駆けつけて対面したが、もはや物言わぬ人になっていた。まさに彼女にとってそれは不意打ちの暴力だった。一人娘の驚愕と悲しみは非常なもので彼女が父親の遺体に対面した時の絶叫は今でも侑子の耳に残っている。けれども侑子が夫の死を実感したのは遺骨を拾うために火葬にされた夫の遺体に対面した時であった。そっくりそこにあったはずの慣れ親しんできた肉体がどこかに消えてしまっていた。夥しい骨がまるでレントゲン写真を撮ったときのように整然と並んでいるさまは壮観であった。こんなに沢山の骨で私たちの体は支えられていたのかという驚きが侑子を襲った。もはや肉体に去られ、それを支える必要から解放された骨は焼かれて乾いた軽石のようになっていた。生きていた時にはこのように乾いて白くはなかったはずだ。骨細胞には血液が流れ、日々新しい細胞の創造と破壊を繰り返し、外から力が加われば傷つき、折れもしただろう。離れていった肉体を恋うるように骨たちがそこに無防備に所在なさそうに横たわっていた。それを見たとき初めて侑子は心の底から悲しみが噴き出しハラハラと涙がこぼれた。

 

  次回に続きます