樹 第21回


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「あなたの撮った鳥の写真を夫から何枚かを見せてもらいました。その時の彼の雰囲気からなにかを感じたの。彼はウソをつけない人なのよ。彼の表情をみれば何を考えているかがわかるわ。夫が心を惹かれている人を見てみたくなったのです」そう言いながら彼女はうっすらとした笑いを浮かべた。同じ笑いは以前にも見たことがあった。そうだ、あの演習林で男二人が彼女のことを批評していた時だ。彼女はどこまで知っているのだろう、それともなにかしら餌のようなものを投げてこちらの反応を窺い、そこから何かを探ろうとしているのか。鳥を撮る人たちが自由に動きまわる鳥を撮影しやすいように地面に餌を置くことがあるが、侑子はそんなあり様を想像した。テーブルの上のカップの中にある紅茶がすっかり冷めてミルクが力なく浮かんでいる。あくまで肯定も否定もせずにこの場をやり過ごすのだと即座に侑子は決断した。今までも彼女はひとから攻撃を受けた時は相手のペースに乗せられないようにと冷静さを取り戻すのが常であった。無邪気さを装いながらこちらの心の中にずかずかと土足で踏み込んでくるような妻の態度に微かにではあるが暴力の匂いがあると侑子は感じていた。ふたたび早川の妻はゆっくり息を整えながら話し始めた。

「夫とは同級だったことはお話ししましたよね。だからもうずいぶん長く一緒に過ごしている訳なんですが、やはり長く暮らせば暮らすほど分らなくなってくることが増えてくるような気がするわ。最近では分かろうと努力することも空しいような気がして。きっとむこうも同じことを感じているのかもしれませんね」

ようやくここまで話すことができたという少し安堵の表情が彼女の顔には窺えた。

「私は夫とは数年で死別してしまいましたから。かえってそれはそれでよかったのかもしれないと最近思うようになりましたが」と侑子は慎重に言葉を選びながら答えた。

「様々なことが人生には起こってきますものね。こちらの意図とは関係なしにまるで不意打ちのように私たちを襲うもろもろで翻弄され、私たちの生活や日常はまるで大海のなかの笹船のように頼りないもののようね。水中にあっけなく放り出されて海の藻屑ということにもなりかねないわ」と話す早川の妻の顔にはあの薄い笑いはなかった。思わず彼女の顔を覗き込んだ侑子は意外にも早川の妻の眼に涙が盛り上がり今にもこぼれそうになっているのを見た。カップを持つ手も滑稽なほど小刻みに震えているのである。そして「夫が知り合って間もないあなたの方に心を開いているのは寂しいけれど甘受
するしかないのかしら」と呟くように小声で言った。

妻はもっと踏み込んで話をしたいと思っているのではないかと侑子は感じた。けれどもそれを聞いたとしても自分になにができるだろう、できるはずもないとあえて何も聞き直さなかった。好奇心を満足させるために、他人の個人的な事情に踏み込むのを彼女は潔しとしなかった。降りかかったものは自分で振り払うしかないのだということを今までの経験から知っていた。しかし、甘受するしかないとはいったいどういうことを意味しているのだろう。早川の妻は自分になにを言いたかったのだろうか。それは侑子にはわからなかった。けれども初めに会ったときに抱いたまるでラフレシアのように無機的な手触りの女という印象は崩れつつあった。侑子はやっと自分と等身大の女が目の前に立ち現われてきたような思いがあった。

 

  次回に続きます