樹 第24回


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「ところで部長だった水谷君は元気にしているのかしら。時々彼のアトリエに行っているんでしょう。たしか彼が屠殺場に行って牛の頭を貰ってきてそれを煮詰めて頭蓋骨にして部室に持ってきたことがあったわ。皆でそれをテーマに油絵を描いた」

「あのことは良く覚えているわ。牛の頭蓋骨なんて初めてみたけれど、真珠のような光沢があって輝いていた。皆であまりの美しさに呆然として眺めていたわね。あなたの絵は骨というより、白く流れるようなタッチで表現されていて夢幻の世界に誘い込まれてしまうような気持ちになったわ」
と侑子も懐かしそうに応じた。水谷は苦労して牛の頭から頭蓋骨を取りだしたのだろうが、そんな苦労は微塵もみせなかった。当時はなんてとんでもないことをする人かと思い、あまりにも彼が並はずれていて恋愛の対象にはならなかったという点では二人は意見が一致した。

あのときはただオブジェとして牛骨を眺めていたのだ。自分が牛を飼っていたり、なにかしら牛との濃密な関わりを持っていたらそれをただのオブジェとして見ることはできなかったであろう。焼かれた夫の骨を見たときにあらためて大きな喪失感に捉えられたように。侑子は見るという行為が自分のそれまでの経験や感受性と大きく関わっていることを感じていた。

前菜から始まって主菜の魚や肉料理も終わり、デザートの載ったワゴンを給仕人が運んできた。それを選ぼうと侑子が額をあげると幾つか先のテーブル杉浦がいることに気がついた。テーブルを挟んで食事をしている相手はこちらからは後ろ姿しかみえなかったが、どうやらあまり若くはない女のようだった。肩のラインや来ている衣服の様子からそれは見てとれた。侑子はあの夏のオオミズアオがいた夜の出来事を思い出した。演習林に皆でいったときには杉浦はそれを想い出させるような素振りはまったく見せることはなかった。その時、侑子はほっとしながらも、なにかしら肩透かしをくらったような気になったものである。あれは一瞬の夢の中の出来事だったのだろうか。しばらくしてもう一度そちらに目を向けたとき、女が立ち上がり、その横顔がみえた。それは早川の妻であった。

「どうしたの。だれか知っている人でもいたの」扶美がいぶかしげに侑子の顔を覗き込んでいた。「いいえ、そうかと思ったけれど人違いだったわ」と侑子は答えた。杉浦は、侑子の存在に気づいてはいないようであった。

 

  次回に続きます