樹 第25回



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アトリエでの時間が終わると、 侑子は早川の車に乗せてもらって近くの丘陵地の雑木林を散策する ことがあった。 丘陵地からは今はもう役目を終えたテレビの受信塔や最近できたツ インタワーなどの高層の建物が望見できた。

「 東京タワーが朝鮮戦争の戦車のスクラップを一部投入してできてい たことを知っているかい」と早川が唐突に言った。

「 それは知らなかったけれど朝鮮戦争の特需で日本が潤ったことは知 っているわ。 現に私の父親も小さな町工場をやっていたけれどジープなどの部品 の受注で業績を伸ばしていた。最後には倒産してしまったけれど」

「そうだったんだね。 古くなった兵器はスクラップされ鉄塊になって再利用される。 そしてまだ使えるものはまるで旧式の車両が世界各地に払い下げら れるように世界各地の紛争地に拡散していくのさ。 でも戦争はまだわかりやすい暴力だと思うよ。 僕たちの生活のなかには目には見えないけれどさまざまな暴力がう ごめいているのさ。」と早川は吐き捨てるように言った。

しばらく二人は池の周りを歩いた。 コガモオナガガモなどの冬鳥が北からやって来て池はそろそろ賑 やかになる気配である。 早川の妻から連絡があってパーラーで会ったことを侑子が伝えると

「そうらしいね、妻から聞いた。彼女らしいと思ったよ。 今まで自分の欲求を他人から押さえられたと言う経験が少ないのだ 、それはそれで半分は幸福で半分不幸なことではないだろうか。 もちろん僕にも大いに責任があることだけれど。 だから自分の思うようにことが運んでほしいという欲求が強いのだ 。 人生には偶然のようにみえる出来事によって我々の生活が大きく現 状変更させられることが常であるのに。 なぜと問うても答のでない事柄が人生の大部分であるということを 認めるのが嫌なのだろう。僕が言うことは運命論とは違うよ。 運命には逆らえないという消極的なものではなく、 まずそういう起こってしまったことを肯定してそこから始めようと いうことだけれど。もっとも僕もえらそうなことは言えないよ。 僕もそれを認める勇気を完全には持ち合わせているとは言えないか ら」 早川は体の前で組んだ両手に力を込めてじっと見つめながら言った 。その額にはうっすらと脂汗が浮かんでいた。

「どうも僕は自分のことになるとひどく歯切れが悪いね」 と早川は自嘲気味に言い、 その調子に驚いて侑子が彼の方を見ると、 今までに見たこともない暗い眼をしていた。 早川は自分の妻をどのように理解しているのだろうか。 あのとき妻は甘受するしかないと呟いていたではないか。 まるで呻くように。 侑子は妻のなかに重い鉛のような思いが沈んでいるのを感じた。 いつもは薄い笑いを浮かべおそらくは傷つかないように自分を防備 してきたに違いなかった。 けれどもそれでは済まされない出来事が妻を襲い、 思わずその仮面の向こうから束の間の素顔を見せたのではないか。 早川は妻に対してこれからどのように行動していくのだろうか。 彼はいずれ何かしらを選択せざるを得ない場面に立たされるのでは ないかという予感がした。

秋の夕暮れは早い。まさに釣べ落としである。 坂道を下っていると枯れた松の枝に見慣れない鳥がいるのに侑子は 気がついた。チゴハヤブサだ。 前に一度この鳥をみたことがあった。 小さいが猛禽類で小鳥を襲う。最初はハトかと思ったが、 よくみると嘴は鋭い。眼も虹彩が暗くて全体が真っ黒である。 二人で眺めているとチゴハヤブサは尾羽をまるで茶色と白のまだら の扇子が開いたかのように数回開閉を繰り返し、 それから翼を大きく広げて飛び立っていった。 尾羽の動きは目が覚めるように美しかったが、 なぜ今この鳥がここに現れたのだろう。 普段は見ることがない猛禽類の鳥が緑地に現れたことでなぜか彼女 の心に微かな不安が広がっていった。

 

  次回に続きます