樹 第6回


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侑子がアトリエで樹木を描くことの難しさについて話をすると、次週に早川が樹木図鑑をもってきた。「もう使わないから君が持っていたらいいよ」と渡しながら言った。しかし、それは新たに購入したものであることは明らかだった。ページの角が新しく、繰るとインクの匂いが香り立った。その図鑑は樹木の季節に応じた変化がわかるようにその時期の樹木の写真がコラージュされて画面が構成されていた。眺めていると、もし樹木の精というものがいるのならそれが画面から立ち上がってくるようで、ひとつひとつの独自な樹木がこの地上に繁茂しているのだということを否応なく納得させられるのだった。

 

侑子はその図鑑を見てからは、街のあちこちに植えられている樹木に目がいくようになった。そして散歩している時には葉に触れたり、花が咲いている樹木の香りを嗅いだりした。なにか世界への扉がひとつ開いたような気がしたものである。私達人間よりはるかかなたの昔から地球を覆っていた樹木たち、彼らの言葉が聞けたらどんなに素晴らしいのかしらと感じるのであった。週末に緑地を散策するときは、小さな枝を幾つか失敬して、帰宅してからそれをガラス瓶に挿した。次の週になるころには忘れてしまうことが多かったが、貰った図鑑で樹木の名前を調べるのが楽しみになった。また葉だけではなく幹の樹皮にも違いがあることに気づき興味を覚えた。同じような葉だと思っても幹を比較することで名前が特定できることを彼女は学んでいた。たとえばプラタナスモミジバフウは葉の形は似ているが幹の様子をみると異なっている。プラタナスは簡単に樹皮が剥がれ落ちてそのあとはまるで迷彩服のような文様になっているのである。

 

   次回に続きます