樹 第10回


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しばらくすると侑子はアトリエ仲間と信州の乗鞍へ行った。 秋も深まった時期で、往路は雪も降りだし、 紅葉の上に降り積もった。 鳥たちは今頃どうしているのだろうかと侑子は心配になった。 次の日は幸い雪も止んだ。 林の中を歩いて行くとダテカンバなどの黄色の紅葉が素晴らしかっ た。 自分の体も黄色く染まってしまったのではないかと侑子は懼れに似 た気持ちを抱きながら、 眼下に低い窪地が見えるところでスケッチブックを広げた。 すべての木が裸木になるにはあとどれだけの時間が残されているの だろう。落葉が迫っていることに微かな焦燥感を抱きながら、 彼女は身にまとっていた衣装を木々が落とす前の一瞬の輝きを紙の 上に留めようと懸命に鉛筆を走らせた。

夕食後、宿泊したホテルでは皆で話がはずんでいた。 早川は富山の立山の麓の町で生まれ育ち、 国体の登山部門の選手だったという。

「ザイルに繋がって岩場を登る仲間とは、 登攀中は地上で味わうことのない運命で結ばれているような強い絆 を感じるんだ。 だってひとつ間違えれば谷へ真っ逆さまなんだから。 相手を信頼しないととてもこんなことはできないよ。

不幸にして滑落してしまった他のパーティ―を見たことがある。 そのときのなんともいえない絶叫は今も耳に残っているよ。 彼らは運がよければ夏に雪が融けて発見されることがある。 もっともその時は白骨になっているけれど。」

侑子は以前、早川が額縁の紐を結んだ様を見たことを思い出した。 そしてそれは登山をしていた時に身に付けた技術なのだと思い至っ た。精巧で、 まるで組みひものような美しさがあり侑子は見惚れたものである。

翌日、彼は旅館の敷地の中に生えていた山栗のいがを拾って、 用心深く器用に皮をむき皆にふるまってくれた。 侑子もひとつ手に取ったがほのかな甘みがあった。 人は狩猟生活から農耕生活に移る間に周りの森のクヌギやコナラな どの実であるどんぐりなどを食料にしていた期間が長くあったと以 前に本で読んだことを思い出した。それは今のチグリス、 ユーフラテス川の流域で、 彼らはいろいろな方法で木の実を保存し食に適するように知恵を使 って生き延びたという。 日本でもまだ農耕が始まっていない縄文式土器の時代は同様のこと が行われていたのではないだろうか。栗なら生でも食べられる、 もちろん火を加えればもっと美味であるが。 早川はごく自然にはるか昔に我々ひとの祖先が行っていたであろう 行動を体現しているかのようであった。

帰途は数人で早川の車に分乗させてもらった。 次つぎと仲間が降りていき、最後には二人になった。

「今年は山の紅葉が早いようだね」 と早川が運転しながら語りかけてきた。

「そうね、乗鞍は黄色一色の世界ね。 まるで体すべてにあの黄色が浸みこんでしまったようだわ。 下界の紅葉とはまるで違う。 もうすぐ一面の雪景色になるんでしょうね。」

「 普段みる黄色はなにかしら人の心を浮き立たせるような感があるけ れど、あの黄色は静かに深く心の中に沈んでくるような気がする。 僕たちはあの一面の黄色を何度も心に浮かべながらこれからの冬を 過ごすことになるのかもしれない。」

そして小声で「君が欲しい」と独り言のようにつぶやいた。侑子はまるで通りすがりにさっと手渡されたような一片の言葉に驚 きを感じながらも不思議に躊躇する気はなかった。

 

  次回に続きます