樹 第11回


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数日後二人はホテルの一室にいた。外は激しい冷たい雨が降っており、その雨の中に部屋全体が沈み込んでしまいそうであった。

それは静かな湖面の対岸に立っている二人がゆっくりとお互いに向かって歩いて行くかのようにして始まった。近づくにつれて胸の高鳴りは大きくなっていく。そして間近に向かい合うとまるで赤子を慈しむかのようにゆっくりと抱擁した。お互いのそれはまるで生まれたばかりの赤子を喜びと戸惑いと惧れの入り混じった思いで抱く時を思わせるものであった。おずおずとした、それでいて未だ知ることのなかった相手はきっと自分を受け入れてくれるだろうという確信に満ちたものだった。その時、侑子のひとつひとつの細胞がひっそりと目覚めていき、血液やリンパがまるで血潮が吹き出すかのように迸りながら流れ出した。体の奥に眠っていた火種がちょろちょろと燃えて勢いを盛り返しはじめたかのようであった。それはぱちぱちと音を立てながら確実に少しずつ大きく燃え上がり、侑子の体の中で燎原の炎と化した。その高熱の火の勢いに彼女の体はほてり始め、もう流れゆく奔流の水しぶきのなかに飛び込むことのほかはなすすべを失っていた。早川は岩や小石が転がる小さなせせらぎであった。しかし、それはやがて次第に勢いを増し、ついには激流となり猛烈な嵐をも伴いながら岩にぶつかり砕け散った。侑子もその流れのなかで激しく翻弄され、体は宙を舞っていたかと思うと爆発し地面にたたきつけられた。不思議なことに痛みを感じることはなかった。けれどもその瞬間、侑子はただ湧きあがる喜びのあまりの大きさのなかに微かに本能的な懼れを感じていた。生の爆発の直ぐ隣り合わせにある死がすぐ近くまでやってきて、自分をじっと眺めているといった感覚だろうか。かつてなかったほど死を間近に感じて慄きを禁じえなかった。そして潮が急速に引いて行くように、二人を爆発の渦の中に翻弄していた嵐はおさまっていった。汗ばんだお互いの肌からむせ返るような水蒸気が立ち上っているかのようであった。

しばらくすると侑子はまるで森の中のシダやコケの香りの中で横たわり静かに呼吸しているかのような自分を見つけた。ひんやりとしたコケの柔らかい感触が皮膚に優しかった。自らの体にある叢からも細かい霧のような蒸気が立ち上り、粘液がこぼれ落ちて両股を潤していた。彼女は愛おしさを感じてそれを掬い上げた。まるで自分の体の細胞のひとつひとつが緑に染まってしまったかのようであった。葉緑体が細胞の中に出現し太陽のエネルギーを取り込むことに成功し植物が生存の基盤を固めたように、彼女も自分の命が新しく生まれ変わったように感じるのであった。

 

それから初めてアトリエで顔を合わせた時、早川はさっと目を伏せた。侑子は平静を装っていたが早川の声を聞くと体が震えた。森に行こうというのが合言葉であった。たしかにそれからも早川との行為は森の中を彷徨っているような感があった。侑子はあの原初の自然の中に抱かれたいという抑えがたい衝動に眩惑され、そこに潜んでいるかもしれない毒をもつ生き物たちにたとえ害されようとも仕方ないというようなある種の諦観の中に身を沈めていた。

 

  次回に続きます