樹 18回


f:id:robinbird:20231127092330j:image

林の中にはエナガなどの小鳥も多数いるようだった。侑子はカメラを向けようと試みたが鳥の動きはすばやくとても太刀打ちできなかった。鳥たちは木立の中を行ったり来たりを繰り返し、上を向いて眺めていると首が痛くなってくるのである。侑子は鳥を撮ることはあきらめてカメラをバッグの中にしまい、ゆっくりこの林のなかの空気を深呼吸した。杉浦が説明する声が少し離れたところから聞こえてきた。どうやら侑子は遅れてしまっているらしかった。ところが気づくと前方から早川の妻がゆっくりと近づいて来た。

「本当に久しぶりにここに来ました。学生時代から二十五年程たっているのかしら。私は実は他学部を受けたのだけれどこちらに回されたの。もう一回チャレンジする道もあったんだけど結局浪人するには気力が不足していたという訳よ。夫も私と同類ではなかったかしら。私は当時も自然のなかにいるよりも人の輪のなかにいたいと思っていたわ。だからあまり真面目な学生とはいえなかった。その点、杉浦君は違ったわ。彼はその当時から森に夢中だった」

見ると彼女の手の指の薄いピンクのマニュキアが森の木漏れ日にひっそりと息づくように反射していた。確かに他人から愛情を注いでもらっていたかもしれないが、彼女自身が人や樹木、植物に愛情を注ぐというようなことは想像しがたかった。なにかが欠落していると侑子は思った。そして突然、早川はきっとそのことにだいぶ前から気づいてしまっているのではないだろうかということに思い至った。早川の妻は夫と同類といっていたが、本当にそうだろうか。彼の絵は植物の写生にしても植物を外から眺めているのではなかった。あくまで植物の内面に入り込み、その植物と一体になってしまうようなパワーが感じられた。いつから二人は乖離してしまったのだろう。それとも初めからふたりはそれぞれの異なった個性をもち対峙していたのかもしれない。けれどもそれは夫婦においてはありふれたことなのだろう。侑子は自分の早く終わった結婚生活を振り返ってみても夫のことをよく理解していたなどとは言えないことに気づいていた。

早川の妻は侑子がハンカチに樹皮を包んでいるのを見つけると、「なんでもあなたは興味をお持ちなのね」と皮肉交じりともとれる口調で言った。

「そうね、私は子供の頃から摘み草が好きだったんです。カヤツリグサの独特のにおいも大好きだった。秋になるといろいろな種を集め、不思議な形に心を奪われたわ」早川の妻はこんな経験をすることはなかったのだろうか。

「残念ながら泥んこになるとよく母親に注意されていました。いろいろ言われているうちに自分のほうから面倒くさくなって自重するような聞き分けの良い子になっていたということかしら」

早川の妻は言葉とは裏腹にさほど残念そうでもなかった。侑子は親たちが生きるのに精いっぱいで子供を放任していた自分の自由な子供時代を初めて幸運だったと心から思った。

「私は小学生の頃、夏休みに植物採集をよくしたものです。新聞紙の間に家の近くに生えている植物を挟んで、上から本などの重しをしておくのだけれど。水分が抜けるとその植物のもっている構造の美しさが浮かび上がってくるような気がして重しをとるのが楽しみだった。子供の頃から植物には特別の愛着があったわ。その頃採集したものは残念ながら残っていないけれど。今でも時々葉っぱや小さな花を挟んでおくのですが、昔のような根気はなくていつのまにかどこかに行ってしまうんです」と侑子は苦笑交じりに話した。

早川の妻は不思議な面持ちでいぶかしげに首を傾けながら聞いていた。侑子は自分がなぜこのようなことを話し始めたのかと戸惑いを感じた。しかしながらもう一方で自分の中に埋もれていた子供時代が突然色彩を帯びて生き生きとよみがえってきたことに驚きを感じていた。あのカサカサした乾いた押し葉にされた植物の手触りや、道ばたに生えていた時よりも生気を失って変色した植物をありありと思い出した。油断して新聞紙を替えることを少しでも忘れるとカビが生えてくる。生きた植物が命を失っていく過程、そこに隙あらばと菌類が取りつくのだ。あの時、植物を実際に手にとり、押し花にすることで植物のもつ形状や触感を子供ながらに体感していたのだ。

  

  次回に続きます