樹 第17回


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あの日、森の中は雨上がりで木々の香りが際立っていた。演習林はハンノキやケヤキ、ナラなどの高木で鬱蒼としている。

「久しぶりだな、ここに来るのは。学生時代以来だ」早川が木漏れ日に目を細めてつぶやいた。「そうね、学期に一度か二度はここで演習形式の授業があったわね」と早川の妻も応じた。「あれから比べると当然だけどずいぶん木が大きくなっているわ」

妻はベージュのストレッチのきいたパンツにプリントのシャツを着て小さなリュックを背負っていた。相変らず洗練された服装だと侑子はあらためて感じた。

「もともとこの地方は陶器づくりがさかんでそのための陶土を掘り出したり、燃料として木を伐採したりで、この辺の山はほとんどが禿山になってしまったんだ。陶磁器産業はもはや斜陽になっているけれど、今でもガラスの原料の珪砂などを掘り出すために山が切り開かれているよ。洪水などの危険を回避するために、戦前からここに大学の演習林がおかれたんだ」杉浦が事情を知らない侑子のために説明を加えた。

侑子はここに足を踏み入れるのは初めてであった。誘われた時、杉浦や早川の妻と一緒というのは気がすすまなかったが、いつも近くの公園で撮影を済ませている身にとってはめったにない機会であった。ゆっくり歩いて行くと、雨上がりということで様々な見たことのないきのこも地中から顔を覗かせていた。侑子はいつもきのこを不思議な生物だと思っていた。まわりを取り巻く植物とは明確に異なるものである。彼らは空中に胞子を放出し、風によって散布させる。そして胞子が木材や枯葉に付着するとそこで発芽し成長を始める。いわばきのこは空中に浮かんでいる微生物が形を現してきたものといえるのだろう。無邪気を装いながらも早川の妻は何を考えているのだろう。目に見えない胞子がきのこの形になっていくように、早川の妻の持っている感情や思考がいつか近い将来、目に見える形で現れてくるのではないかという予想があった。いったいそれはどのようなものだろう。早川はどう感じているのだろうか。アトリエのパーティのあと、二人だけで会う機会はなかったので侑子には分からなかった。

 

「ナラの木には虫がいるけれど、この演習林では基本的には駆除しないで観察に徹するようにしているんだ。だから虫たちにとっては天国さ」杉浦は虫の被害にあった幹の樹皮をはがしながら言った。彼の口調は自分の知っていることを他人に吹聴するような軽薄さや押しつけがましさとは無縁であった。あくまで自然体で、自分の親しいものについて心を開いて語っているようだった。あの眼の中にある人をからかうような様子は今日は少しなりを潜めて、自分のフィールドで寛いでいる様子が伝わってきた。

 

  次回に続きます