しばらく二人は男たちに追いつこうと言葉少なに歩みを進めた。 早川と杉浦はアカマツの近くで女たちを待っていた。 この近くにはネジキやアラカシ、アセビ、 ソヨゴなどが生えていた。 ソヨゴは秋になると赤く色づくが今は青い実を風に揺らしていた。 その葉は縁が少し波打っている。 侑子はソヨゴと名付けた感性を愛おしく感じた。
「モンゴリナラはこの辺だけにみられる絶滅危惧種なんだよ」 と杉浦が葉を手に取っていった。「 葉には鋸のような切込みがあるから見てごらんよ」
侑子は言われるままに手にとり、その匂いを嗅いだ。 早川はその仕草を自然で好ましく感じていた。 そして二人の女の資質の違いを見たような気がした。 一方は木を触り、匂いを嗅ぎ、木肌を愛撫していた。 まるで樹木と一体になろうとでもするように。早川は「 俺は今彼女が愛撫している樹木になってしまいたい」 という欲望が奔流のように体のなかを駆け巡ってくることを意識し てかろうじて地面の上を踏ん張って耐えていた。
杉浦は傍らに立っている早川の妻に笑いながら話しかけた。「 君は退屈していないかい。 だって学生時代からいつもこの演習林の授業はさぼろうと画策して いたじゃないか」
「そうね、あの時からあまり変わっていないわね。 あらためてあまりにも自分が変わらないので呆れているところなの 」と早川の妻は応じた。
「変える必要なんてないさ。皆が皆、 森が好きだなんてことはおとぎ話だよ。 嫌いなら嫌いでそういう自分をゆっくり眺めたり考えたりすればい いのさ」
「君は昔から彼女に対しては寛容だったね」
「そうだよ、 彼女が僕の求愛を振り切ってお前と結婚しても僕はそれを祝福して こうして付き合いが続いてきたじゃないか」
杉浦はあの諧謔に満ちた眼で侑子に目配せしながら話し始めた。「 僕はこのひとに自分と同じように森を好ましいと思ってほしいと願 ったが結局はかなわなかったよ。 そしてむしろその自分と違うところを面白いと感じることによって 挫折を乗り越え君たちを祝福できるようになったというわけさ」
「 ところが亭主の僕はやっと最近彼女のそういう頑固な一面に気づい たということさ。遅きに失したと言うべきか」 早川は冗談めかして話していたがそこには彼の苦々しい思いが微か に隠れているのを侑子は見逃さなかった。
男たち二人はまるでそこに早川の妻が居合わせていないかのように 笑いながら彼女を俎上にのせ批評していた。 当の妻は特には言い返すこともせず、 まるで他人事のようにうっすらと微笑んでいるのである。
侑子はこの三人の学生時代を想像した。 このそれぞれの男たちが苦い思いの入り混じった会話ができるよう になるまでには様々なことがあったのだろう。 たしかに早川の妻には窺い知れない薄い膜に覆われているようなと ころがある。 そして自分のスタイルをけっして変えようとしない頑固さと男たち は言ったが、 変えようとしないのではなく多分変えることができないのであろう 。 この二人の男はその膜をなんとか剥がして彼女の実像に迫ろうと努 力を続けたのだろうが、 結局は今になっても叶うことはなかったということだろうか。 侑子は人が惹かれあう不可思議さと彼らのこれまでの日々を思った 。
次回に続きます