痣(あざ) 第1回


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暫く『痣』と題した短編を綴ります。お読み頂ければ幸いです。

 

電車が川に架かる鉄橋を渡る時は、 振動と轟音が一段と激しくなった。

折からの降り続く雨で、川の水は勢いを増している。 この私鉄の終点は山ふところに拡がっている江戸時代から製陶業が 盛んな町で、 その陶土が川に流れ込むために川の水はいつも濁っていた。 沢木は私鉄の電車の後部座席に身を沈めていた。 電車が川を渡ると両側には人家がすぐそこまで迫っていて軒に手が 届きそうである。そうした隘路を電車は軋みながら走っていく。  

しばらくして市街地を抜けると次第に家並もまばらになり、 早春のやわらかい雨にけぶる農地が拡がっていた。 沢木は途中の小さな駅で下車した。 駅舎の中には駅員が一人所在なさそうに机に向かっている。 昼下がりのせいか乗降客は少なかった。 彼が最後に改札を通過するときにその駅員はようやく頭を上げ、 切符は改札横の箱の中に入れるようにと言った。 駅前といっても商店の賑わいがあるわけでもなく、 ささやかな花壇がある広場があるだけで、 その電車を利用する通勤通学客の自転車がまるで忘れ去られたよう に駐輪場に並んでいる。彼は駅を出て南に向かった。 広い県道に出たが、やはり走っている車はさほど多くはない。 交差点を横切って数分歩くとアスファルトの道の両側はいつのまに かまた畑になって、 生えそろった麦の青々しい葉が雨に濡れていた。 空はどんよりとしてまだ風は頬を刺すように冷たい。

 

沢木は傘を差し、肩をすぼめながら歩いて行った。 すると道の前方に灰色の四角い建物が目に入った。 屋上には三本のポールが立っており、 それぞれの旗が折からの雨でぐっしょり濡れてポールにへばりつい ている。真ん中は日章旗、両脇は校旗と県旗なのだろう。 なんだか廊下に立たされてしょげ返っている三人の生徒のようでは ないかと沢木は思わず苦笑した。

日章旗には思い出があった。子供の頃、 祝日になると近隣の多くの家の玄関先にこの旗が掲げられていたも のである。古びたボール紙でできた平たい箱を母親が開けると、 中には少し色褪せて茶色がかった絹布の日の丸と、 ダチョウの卵と同じくらいの大きさの金の丸い球がおさまっていた 。別に置いてあったポールの先端にその金の丸い球をはめ込み、 旗に附属している紐を竿にくくりつければ旗竿の完成である。 玄関先に立てかけて、 雨が降ってくると母親が洗濯物と同じように慌てて取り込むのだっ た。あるとき、折からの強風で竿が倒れ、 金色の球が割れて粉々に飛び散ってしまったことがある。 球は表面に金色の塗料が塗られたガラス製であった。 母親は塵取りを持って来て手早く片付けたが、 金色の球のない日章旗はどこか間の抜けた滑稽な感じがした。 彼にとって日章旗はあの金色の丸い球と不可分のものであったから だ。 屋上の日章旗がなにかしら情けないような感じがしたのは金色の球 がなかったせいもあるのかもしれない。

 

 次回に続きます