『フランケンシュタイン』を読んで


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物語は北極海の探検に向かうウオルトン船長が姉のマーガレットに 送る書簡の形で始まる。彼はその航海の途中にヴィクター・ フランケンシュタインと会い、彼の話に引き込まれ、 彼の数奇な運命を記録することを決意する。

全編を読んで心に迫って来たのは、 自らの愛するものをすべて奪われたヴィクターの悲嘆も然る事なが ら、彼に創造された「怪物」の底知れぬ悲しみである。 醜い外見をもった人間として創造されたが、 彼は本能に導かれたのかそれは定かではないが、 自らの力で感情と知性を獲得していく。

アルプス山中のモンブランを望む山中で彼が創造主から見放され、 自らの力で生存を試みたそれまでの経過を語る部分は印象的である 。それは親の愛情と庇護を得られず、 世の中に放り出された子供の辿る運命で、 深い悲しみと呪詛に満ちていた。

醜い風貌のため、愛を求めても誰からも得られず、 自ら生きる術を手探りで探っていく。 圧巻はフェリックス一家の納屋に落ち着き、 彼らの隣にひっそり暮らしながら、 その家族の日々の営みをつぶさに見ていく中で人間的な感情を獲得 して行く過程である。 彼らが日々の労働に疲弊していることを見て、 夜中のうちに薪を集め、また雪かきをし、 彼らが驚きながらも喜びで目を輝かせているのを見ると自らも喜び を感じるようになる。 そして一家の生活の中に愛と悲しみが存在することを理解できるま でに自分の感情を育てていく。 その有り様の記述はとても興味深い。「怪物」は 彼らが声を使って自分たちの経験や気持ちを伝えていることを発見 する。言葉が相手の心に感情を喚起することに気づき、 彼らをより理解したいと言葉を獲得すべく努力を重ねる姿はいじら しいほどである。 その一家のひとりの娘がギターを弾きながら歌う歌に涙するまでに 「怪物」の感情は成熟していく。 それは赤子が家族や身の回りの人々の間で、 心身共に成長していく様を彷彿とさせるものだ。そしてまた「 怪物」は話すことと並んで読む能力も獲得していく。

彼はある日、見知らぬ旅人が残していった3冊の本を発見した。『 若きウエルテルの悩み』『プルターク英雄伝』『失楽園』である。 彼はこれらの本をフィクションではなく実話であると考えた。 そして本の内容に共感を覚えるが、 同時にあらためて自分が何者かを問い直し、 これからの自分の運命に思いを馳せる。

ところで、 このヴィクターとの対話の中でもう一つの重要な部分は、「怪物」 がヴィクターの実験室から持ち出した、 彼が生まれるまでの顛末を書き記した日記から自らがどのように創 造されたのかという事実を知ったことを語る部分である。「 神は人間を哀れみ、自分の美しい姿に似せて人間を想像した。 だがおれはおまえの汚い似姿に過ぎない。 そしてサタンにさえ同胞がいるのに自分は他から疎外されるばかり だ」と。このように知性が増すにつれて彼の失望は募っていく。

そして不幸なことに彼の醜いおぞましい風貌のゆえにフェリックス 一家に拒絶されるのに及んで、「怪物」 は怒りと復讐に取りつかれていく。しかし彼は言う、 まだ絶望はしないと。 自分の創造主に会って助けてもらおうという希望をもって後を追っ てきたという。

ヴィクターは「怪物」の、自分と同じ生き物、 伴侶を作ってほしいという願いを大いなる躊躇の末、 一旦は承諾するのであるが、その後拒絶する。絶望した「怪物」 はヴィクターの愛する者をすべて殺害し、 そしてヴィクター自身までも死へと追い込んでいく。

このアルプス山中の、ヴィクターと「怪物」との対話は、 人間が生を全うするための重要なもの、 両親をはじめ周りの人間から得られる愛情と受容されているという 安心感、 それが人の生存にとって欠くべからざるものであることを示唆する 。 そして人間は他者との関係性の中で感情や知性を獲得していくこと に思いを至らしめていく。 創造主であるヴィクターは肉体だけは作ることができたが、 怪物はまるで本能にでも導かれているかのように、 みずから感情と知性を獲得していく過程は非常に刺激的であった。 そして自分を認め受け入れてくれる存在、 愛といえばよいのだろうか、 それが満足に得られない時にひとはどのようになるのかを怪物が身 をもって体現していく様は戦慄的である。

それにしても創造主のヴィクターはどのようにして新しい人間を想 像したいという欲望にとりつかれたのだろうか。

その背景には当時の科学や機械の発達があるようである。 この小説が書かれた19世紀前半は折しもイギリスでは産業革命が 進行し、 人々の眼前には科学の力が目に見える形で驚異的なものとして現れ てきていたのではないだろうか。 そしてダーウインの進化論の発表は1859年である。 著者のメアリー・シェリーの没年が1851年であることを考え合 わせると当時のヨーロッパ社会で地鳴りのように引き起こされてい た生命観の大転換が彼女の作品に大きな影響を与えていたのではな いかということは容易に窺い知ることができる。

ヴィクターは当初は錬金術に心酔しているが、 インゴルシュタットの大学でヴァルトマン教授の薫陶をうけて化学 に目覚めていく。教授は「 自然の観察とその解明によって科学者がほとんど無限の力を手に入 れた」と言い、ヴィクターに対して科学研究に対する献身を誘う。

彼は人体の構造,生命を持つ動物の構造に興味を覚え、 生命の原理の探求欲にとりつかれるようになる。 それは生理学の分野で、 神が人間を創造したとする聖書の教えはもはや相対化されており、 ヴィクターは神に代わって新しいひとを創造することに躊躇するこ とはない。

彼は生命の起源を調べるには死についての考察が必要で、 それには解剖学だけでは足りず、人体が自然に衰え、 崩れていく姿を観察しなくてはならないと考えた。 そこから墓場を漁り、 人体の腐敗の原因と進行具合を調べる作業に没頭する。 その様は傍からは狂気にとりつかれているように見えるが、 彼にとっては当時支配的になりつつあった科学的思考を突き詰めて いった果ての実践であったようである。

彼は言う、「生と死は頭の中で作り上げた枠組み、 これを最初に突破してこの暗い世界に光の雨を注ぎ込まなければと 考えたのです。 そしてわたしは生命発生の原因を発見することに成功しました」 と。 この彼の言葉は現在目覚ましい発展を遂げる生命科学分野の研究を 彷彿とさせる。19世紀前半に書かれたこの作品からほぼ200年 を経て、彼の研究はフィクションの中のものではなく、 もはや現実そのものとなり、 わたしたちの生命に対する価値観を根底から揺さぶり続けている。 彼は人間の創造に着手した際、 体の各部分が細かすぎると時間がかかると考え、 巨大な人間を作り上げようと決断した。それが実現してみると、 美しい人間を創造しようとした意図に反して、「悪魔のような屍」 が現れて、 彼はその怪物から逃亡せざるを得ないところまで追い込まれていく 。このことはまさに拙速な生命の操作は、 人類にとって取り返しのつかない無残な結果を生むことを示唆して いるように思えてならない。

物語の終盤では、 ついに力尽き息を引き取ったヴィクターの亡骸の近くに「怪物」 が忽然と現れる。 彼は自らが多数の殺人を犯し罪に穢れていることを認め、 激しい悔恨に苛まれる自分には死以外に慰めがないと嘆く。 復讐の鬼と化したかに見えた「怪物」の複雑で繊細な感情に触れ、 果たしてヴィクターのなした創造物は失敗作だったのかという疑問 が浮かぶ。不幸にして見るも無残な外見を与えられはしたが、 彼の持つ感情と知性のありようには深い共感の念が湧いてくるので ある。