樹 最終回



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侑子はこの手紙を何度も読み返した。 あれから十年経った今も思い出したように取りだして眺めることが ある。 初めてこれを読んだ時は早川を失うということを現実感をもって捉 えることができなかった。 これからも彼は手の届くところにいるという根拠のない確信にすが っていた。 しばらくして妻が回復し今までとなんら変わらぬ毎日が始まる。 そしてまた以前と同じような日々が戻って来るのではないだろうか 。このような考えが心を占めていた。しかし、 あれから彼はもうアトリエに戻ってくることはなかった。 いつ見ても彼の座っていた場所には彼の姿はなかった。 侑子はまるで何事もなかったようにアトリエではふるまっていた。 主宰する水谷はただ、 早川は家族が病気になったので当面は休むと簡単に告げただけだっ た。

彼の妻は結局、病になることによって夫を完全に取り戻したのだ、 病にかかることで有無を言わさない力で早川を自分からむしり取っ て行った。侑子にはそうとしか思えなかった。 彼女は凄まじい力で夫を鷲掴みし、 自らの元に帰還させてしまった。 まるであのオデッセイをカリプソ― のもとから帰還の途につかせてしまったように。 病は死がそうであるように、 本人の生活はもとよりその周りの人間の生活を大きく変える契機となり得る。 侑子は早川の妻に対して初めて感じる大きな嫉妬心を禁じえなかった。

 

いつか早川が戻ってくるのではないかという希望も数年経つうちに しぼんでいった。侑子は手紙を取り出して眺めるうちに「 利用する」という言葉に目を留めるようになった。 自分は利用されたのか、いや、そのようなことはなかった。 しかし、たとえ利用されたとしても構わない、 むしろ私はなんらかの彼の役に立っていたのかもしれないのだと考 えると心が不思議なことに落ち着いた。 利用する側とされる側という関係が二人の間に存在したと早川が考 えようとそれは自分には問題ではない。 あの日々を言葉で無理に定義し規定しなくてもよい。 単純な言葉で包んでしまった途端にそれは事実とは少し異なったも のに変質して大事なものが滑り落ちてしまう。 利用するという言葉は相手から離れて冷たく相対する時にしかでき ない行為だ。 あの日々をそのような言葉で冒涜することは許せないと初めて早川 に対する抗議の気持ちが湧き出てきた。 早川も言っていたようにあれは私の胸の小箱に大事にしまわれてい る煌めくような日々ではないか。

彼の存在は私にとって何だったのだろうか。 そのとき侑子の心の中に一本の樹木のイメージが浮かんだ。 心の中に棲んでいる樹木、 だれでも人は心の中に自分の木を持っているのではないだろうか。 その木がサワサワと音をたてるとき、 早川の声が聞こえてくるような気がする。 心のなかで小さな幼木から少しずつ成長を続け、 いつも仰ぎ見る対象となっていった。 そしてそれは時には暴風に枝葉を揺らせ、 雨が降ればそれを水分として根元に蓄え、 鳥たちを枝の中に保護し、 微風にさわさわと歌声を響かせるようながっしりした成木に成長し つつあったのだ。彼を失った痛切な感情はいつしか薄れていった。 しかし、様々な瞬間に彼の声がふと蘇えることがあった。 激しい夕立の雨の中、 自転車を走らせていたときに後ろから彼の声が聞こえてくることも あった。

 

先週、侑子は再び緑地の倒れたポプラに足を運んだ。 幹は切り刻まれたのかすでに片付けられていた。 土中に半分めり込むようにして倒れたポプラの根は重機をもってし ても引き抜けなかったという。 よく見ると根の近くの裂けた樹皮の間からあのピンクがかった新芽 が数本、やはり空に向かって伸びているではないか。 しかし箱庭のようなこの緑地では人間どもにはポプラの再生を待つ だけの余裕さえ持ち合わせていないのであろう。早晩、 なにごとも起きなかったようにポプラの根も切り刻まれて跡形もな く片づけられてしまうに違いない。そのことに思い至ったとき、 侑子の体の中にもっと大きな荒々しい自然に抱かれたいというあの 衝動が湧きあがってきた。激しい雨が降ってくると、 その中に裸で駆けていってシャワーのように浴びたいという思いを いつも抑えきれないでいる自分、 太古の時代に祖先たちがこの大自然の中で生きていた頃の遺伝子が 体の中で呼び覚まされるのか。緑の苔の上に体を横たえ、 風の音を感じ、太陽の光を浴びながら、鳥や虫たち、 さまざまな動物たちを身近に感じたい、 一体になって彼らの世界の住人になりたいという欲望が体の中から うねりのように盛り上がってくるのを感じた。 あの早川と過ごしていた日々に強く感じていたように。

 

   完

 

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