痣 第8回


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新学期の授業が始まって一カ月が経過した。 塵ひとつなく磨き上げられたリノリウムの廊下を歩いていると、 いったい自分はどうしてここにいるのだろうという不思議な感じに 襲われるのであった。 渡り廊下の窓から外をみると運動場のすぐ脇には田畑が広がってい たが、そこにもめったに人影は見られなかった。 まるでこの建物は海の中に浮かぶ島、 他から隔絶された孤島のようだと沢木は思った。

初めて倫理社会の授業のために二年生のクラスに入って行ったとき の奇妙な雰囲気を今も彼はまざまざと覚えている。 教室に足を踏み入れると生徒は静まり返っていた。 机の乱れもなく教室の前後の壁には掲示物もほとんど見られなかっ た。 五時間目の授業だったので昼の休憩時間の名残のような活気が生徒 たちの顔に残っているのではないかと一瞥したがそれもほとんど感 じられなかった。 初めての授業のときによく見られる新しい教師に対する好奇心をあ らわにしたようなざわついた雰囲気もなかった。 教師とはっきり視線を合わせようとする生徒は少なく、 上目づかいに沢木を眺めるか、 こちらが視線を合わせようとすると微妙に視線をずらしてしまう生 徒が多いことに気づいた。 最前列の生徒に自分が教室を間違えたのではないかと聞いてみたが 大丈夫だという。警戒心なのだろうか、 それとも果たしてこの教師は自分たちの敵なのか味方なのかを見極 めようという思惑があるのだろうかと彼は生徒たちを前にして微か な戸惑いを感じていた。 しかし彼らに対してはおもねることも威圧することもしまい、 あくまで自然体でありのままの自分を曝すしかないという諦観のよ うなものが一瞬のうちに彼を捉えた。

生徒たちの自己紹介は短く、親しさはほとんど感じられなかった。 沢木は生徒に向かって話しているうちに教室の廊下側の隅に強い眼 の光を放ってこちらを注視している男子生徒がいるのに気がついた 。体はがっしりして大きく、胸板は厚かった。 沢木がそばにいくと目を合わせることはせず、 露骨に窓の外に無表情な視線を移した。沢木は「 僕の顔に何かついているのかい」と軽口を叩こうとしたが、 取りつく島もなく、仕方なく退却せざるをえなかった。 後に知ったことであるがそれが職員室でよく話題にのぼっている繁 であった。

教室の中には窓からの生温かい微風が吹いていた。 その空気の流れを頬に感じながら沢木は教壇の上に立ち尽くしてい た。生徒たちは言葉を発しないが、 そのふるまいに無言の意思があり、 沢木は自分の一挙一動が彼らに注視されているのを痛いほど感じた 。 彼らの外に向かって表現されるべきエネルギーは内側に籠り屈折し ているようにみえる。 生徒に形だけの静粛さを求めればその内圧はいよいよ大きくなって いくのではないだろうか。 そのエネルギーが激しい風になって大きな立ち木をなぎ倒すさまを 沢木は思い浮かべていた。 あのオリエンテーション合宿を経験した後では、 これからの授業での自分の試みが双方にとって砂漠の中のオアシス になるか、 あるいは危険な油田となるのかは彼にもわからなかった。 様々な予感の中で怯えを含んだ震えるような感情が彼の心をよぎる 。 生徒たちのこの学校で過ごしている時間は自分より長いのだと沢木 はあらためて感じていた。

 

 次回に続きます