痣 第10回


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一学期は沢木にとっては目新しいことばかりでまたたく間に過ぎていった。職員室でそれとなく見聞きするところによると、受験に関係する教科では到達度を測るために小テストが繰り返されているようであった。教科主任の川口はよく自分のテストで成績の良くなかった生徒に運動場を何周か走らせる罰を与えていた。暗記が苦手だったり、課題の提出を忘れたりとその理由はさまざまであったようだが、放課後になると毎回二、三十人の生徒が走っている様はなにやらユーモラスでもあった。しかしある日、笑って済ませることのできない出来事が起こった。

 

毎週木曜日の放課後には職員会議が開かれることになっていたが、その日は会議の冒頭で次のような教頭の発言があった。

「今日は生徒の生活指導がテーマですが、職員会議は討議の場ではないことを皆さんによくわきまえてほしい。校務委員会で決定されたことを伝達する機関であることを忘れないでいただきたい。」

またかと沢木がうんざりした思いで聞いていると、その教頭の発言に年配の教師が質問した。

「私はこの学校に赴任する前に二つの学校を経験しましたが、生徒指導については特に教師の自由な討議で決めていたものです」ここまでその教師が話し始めると数人の校務委員が次々と手を挙げ、指名されると口々にその教師をあからさまに罵倒し始めた。

「ここではそんな時代遅れな考えは通用しませんよ。」

「皆で議論していても碌な結論は出ないよ、時間が無駄に過ぎるだけだ」

教師たちが臆面もなく同僚を攻撃する様に沢木は苦い思いであった。職員室のなかはあたかも暴風雨が到来したかのように凶暴な雰囲気に席巻されていた。沢木はあらためて教頭以下校務委員会の面々の顔を眺めたが、一人一人はもし近隣で会えば人がよさそうな弱々しい笑みを浮かべて挨拶しながらすれ違うような人物のように見える。ところがひとたび派閥の成員として行動し始めると彼らはまるで別人のように変身するのであった。若い教師の大半もそれに迎合していた。

「この学校の方針を他の学校と比較して批判するのはやめて頂きたい。いやなら辞表を出すべきだ」数人が同じ趣旨の発言を激しい口調で繰り返したことで、ついにその教師も口を噤まざるをえなかった。うつむいた彼の顔はまるで能面のように青白い。職員室の中には、いつのまにか窓から入ってきたブヨが数匹飛んでいた。

あの入学説明会のときと同じだと沢木は執拗に繰り返されるこの単純な論理に辟易していたが、一方ではそういう単純な論理であるからこそ人を惹きつける磁力が強いのかもしれないと感じていた。学生時代にもいやというほどそれを見てきたが、人間は往々にして単純でわかりやすいものに飛びつく。しかし現実というものはいろいろな要素が錯綜し絡み合って、一筋縄ではいかないものだ。その時、ふと沢木は旅先の漁港でみた光景を思い出した。地元の漁師は、陸にいる間は大半の時間をそのことに費やすと言っていたが、貝殻や昆布、名前を知らない海藻がびっしりと纏わりつき、ところどころ破れて穴の開いてしまった網を丹念に繕っていた。僕もあの漁師と同じようなことをしたいという思いが沢木の胸ににわかにこみ上げてきた。それは唐突ではあったが、やっと泥の中から拾い出した硬い石ころのように確かな手ごたえのあるものであった。

沢木はあらためて生徒たちと読んでいる「ソクラテスの弁明」について思いを巡らせた。多くの人を敵に回しながらも愚直とも思えるやり方で知ることの意味を追求していったソクラテスの行動を彼はあらためて現実感をもって受け止めていた。あれは絵空事ではない、彼の行動はきわめて今日的でもあると感じ、すぐ隣に静かに呼吸しているかのようにあのソクラテスというギリシャ人の存在を意識した。

    

   次回に続きます