痣 第9回


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戦前に開催された博覧会の跡地に作られた都市公園の緑の中に中央図書館はあった。二階へ上る階段の途中に踊り場があり、半円形に外に向けて張り出した大きなガラス窓があった。窓の外を見ると高さが二メートルを超すと思われるハナミズキが白い花をつけている。彼はいつもこの半円形の窓の作用を好ましく感じた。幅の広い階段を登って踊り場で立ち止まると公園の緑のなかを行きかう人やその上に広がる空が見える。これから外界をしばし離れて自分の内面世界に入っていくのだというある種の旅の感覚を強く意識させられた。そして逆にしばらく二階で時間を過ごして降りてくるときは、今までの本の世界に沈潜していた心を開放し、現実世界に戻っていくための心の平衡を取り戻す空間になっていた。

沢木はこの窓から見る景色に触れるたびに、建築の設計者の細やかな心配りを感じた。空間が人の意識に大きな影響を与えることを熟知した設計者だったのだろう。同時に今自分が勤めている学校の箱状の建物を思い出していた。人の感情を鼓舞したり、鎮静したりする仕掛けをもたない建物は、最低のコストで生徒を収容する容れ物を作るという意思の体現であり、生徒の心を育むという視点は欠落しているように思われるのだった。

 

しばらく二階で本を読んでいた沢木はゆっくりと階下に降りてソファに座った。休日の図書館は家族連れや年配者でいつもより賑やかだ。人々は思い思いの本や雑誌を大切そうにかかえてカウンターに向かっている。

彼は今まで読んでいた「ソクラテスの弁明」について思いを巡らしていた。彼が裁かれたギリシャの法廷はどのようになっていたのだろう。デルフォイの神殿のような円形劇場なのだろうか。ソクラテスはどの入り口から引き出されて弁論を行ったのだろう。裁判員の数や裁判を見守る聴衆はどのくらいいたのだろうか。そして彼らはソクラテスとどのような位置関係に座っていたのだろうか。沢木は次々とギリシャの法廷の様子に想像の翼を拡げていた。あの裁判が行われたのは照り付ける地中海の太陽のもとなのだろうか、それとも濡れそぼる小雨の中だったのだろうかと。

彼は学生時代からギリシャ神話やプラトンを愛読していた。神話の中では神と人間は親しく交流はするが神が不死であるのに対し、人間の命が有限であることが強調されていた。 そして本当は神だけが知恵あるものであり、人間は知恵という点では神にかなわない存在であるということを知っていることが自分の拠って立つ基盤であるとソクラテスは主張していた。そういう意味ではソクラテスギリシャ的伝統の中に生きる人である。しかし沢木の心のなかには先ほどから様々な思いが去来していた。彼にはなぜ自分がこのような目に遭うのかという理不尽さを呪う思いはなかったのだろうか。人々の憎悪を前にしてたじろぐことはなかったのだろうか。プラトンや支持者たちが周りにはいたが、大勢の人間を前にたったひとりで対峙する彼の心中に去来するものはなんだったのだろう。ソクラテスの文章はすべてプラトンによって書かれており、あくまでプラトンの目を通して描かれたソクラテスである。沢木は直接ソクラテスが何を感じ苦悩していたか、その感情の揺らぎをつかみ取りたいと切実に願っている自分を意識していた。

 

沢木は中央図書館の最寄りの駅から地下鉄に乗って街の中心にある駅で降りた。地上に出ようと階段を上っていると後ろから肩をたたく者がいる。振り返ると意外なことに久米がいた。

「よお、こんなところで会うとは。もっとも休日ぐらい職場の連中とは顔を合わせたくないというところか」

そういう彼を見ると紺色のジャケットと格子柄のシャツといったいでたちであった。深めの中折れ棒帽をかぶっているので目の周りの青痣は目立たなかった。

「時間があればコーヒーでも飲まないか。」

断る理由も特別見当たらなかったので、沢木は彼のあとについて広い道路沿いにある喫茶店に入った。テーブルをはさんで向かい合うと久米はポケットからたばこを取り出して火をつけ、大きく息を吸い込んだと思うとゆっくりと吐き出した。偶然の成り行きに沢木は少し緊張気味に座っていたが、それを久米には気取られたくはなかった。

「ところで転任してきてからまだ数カ月といったところだけれどだいぶ慣れたかい。他校と比べて少しばかり変わっていると言えば変わっているから。」と久米は言いながらやはり探るような目つきで沢木を見た。

「そうですね。生徒がおとなしくて礼儀正しいのには少しびっくりしています。」

「初めが肝心なのさ。君も見ただろう。オリエンテーション合宿で規律を叩き込む、先手必勝だ。少数の教員で多くの生徒を把握するためにはこれしかない。校務主任も言っていたと思うが、数年前に大学紛争の影響を受けて高校の卒業式が大荒れになったことがあっただろう。あんなふうに一部の生徒がとんでもない主張を始めると全体の秩序が壊れていくのさ。」

「そういう意味ではかなり成功していると言えるのかもしれませんね」

「俺は前にも話したけれど、体育大学出身だから先輩後輩の関係は厳しかった。どんな理不尽なことも先輩の言うことは絶対だった。俺は見たとおりの顔に青痣があるだろ。ある先輩は俺に酒を飲ませるとそれが大きく赤黒くなるのが面白いと言って無理やり俺に酒を飲ませてその変化を楽しんでいた。もう飲めないというと袋叩きにされ殴られるのが常だった。徹底的な服従しかないんだ、先輩には。」

「それにしっかり耐えると次にやって来る後輩に同じようなことを要求できるということですか。」

「そうさ、察しがいいじゃないか。我慢していればそのうちいいことがやってくるというわけさ。」

「僕も背中に同じような小さな青痣があるんです。直接みることができないから、今ではあまり意識することもありませんが」

「同じ痣でもそれがどこにあるかで大違いさ。俺なんか顔のまんなかに威張りくさって居座っていやがるんで忘れようとしても忘れられないのさ。どれだけ子供の頃から苛められたか、君には想像もつかないだろうよ」

久米はここまで言うともう一本のタバコに火をつけた。口元には苦々しい経験を思い出すかのように自嘲気味の薄笑いが浮かんでいた。

 

 次回に続きます