痣 第7回


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「君は数年ほかの社会を経験してきたというじゃないか。どうだ、ここでうまくやっていけそうか」

久米はだいぶ酔っているらしくその言葉には絡みつくような悪意が感じられた。

「そうですね。まだ日が浅いので何とも言えませんが。でも上からの指示が絶対というところは会社も学校も同じですよ」そしてその上司の命令が適当なものであるのかどうかを下の者が問うことは許されないのだという最も言いたいところは飲み込んで口には出さなかった。沢木のその言葉を聞いて周りの教師たちが少し後ずさりするような雰囲気になったのを彼は敏感に感じ取っていた。強い者に対しておもねることや盲従することを潔しとしないなら、ほかに取るべきどのような態度が残っているのだろうか。沢木はこれまで学生時代のあの大学紛争の喧騒の中を含めていつもそれを探し続けてきたように感じていた。今までは観察しながらも行動することは少なくいわば傍観者であったが、この職場でそれが通用するかどうかは彼にはわからなかった。沢木の言葉を聞いて急に不機嫌になった久米の態度からは、彼が沢木をあの入学説明会で質問した父親と同様、要注意人物のリストに入れたことが窺えた。

翌日もほぼ同じスケジュールで活動が続き、最終日には今までの訓練の集大成ともいうべく芝生の運動場で集合離散の訓練の成果が披露された。やはりこれは美とは程遠いものだと沢木はあらためて感じていた。本来美というものの中には生き生きとした躍動感が宿っているはずだ。生徒たちの動きは機械のように正確なものではあったが表情は硬く、自分がミスをして咎められると他の生徒に迷惑が及ぶのではと恐れる気持ちが彼らの心身の伸び伸びとした自由を奪っているように見えた。

合宿の最後に登壇した校務主任はつぎのように切り出した。「これで君たちはわが校の生徒としての第一歩を踏み出した。今まで中学校で教えられたさまざまなものはすべて忘れるように」この言葉は最近どこかで聞いたことがあるように感じられた。そうだ、四月早々に行われた教育委員会主催の新任研修で教育長が語ったものと同じ論理であった。大学で学んだことはすべて忘れるようにと訓示があった時には沢木は耳を疑った。このように知性をあからさまに否定することが教育の場で行われていることに慄然としたのである。普通高校では大学進学率を上げることが至上命令となっており、入試に対応できるようにすべてのカリキュラムが組まれていたと言っても過言ではない。それなのにその大学で行われる教育を否定するとはなんという論理の矛盾なのだろうと思った。

 

沢木にとってずいぶん長く感じられた二泊三日の合宿は現地で解散であった。彼はこのところの息苦しさを発散させるためにすぐには帰途につかず、施設の周りにある雑木林に足を向けた。あちらこちらで新芽が萌えいずる気配が感じられた。コナラやシラカシの林の先端部分は薄いピンク色に染まり、春の芽吹きが始まっている。コナラは冬の間はすっかり葉を落としていたが、今は薄緑色の柔らかい若い新葉が枝全体を覆っている。彼はその若葉の間に垂れ下がるような房状の雄花があることに気付いた。そして枝の先端を見ると、言われてみなければわからないほどのつつましやかな雌花が咲いている。木の幹に手を添え、耳を近づけると、生殖の季節を迎えているらしいコナラの木の中にさわさわという水の流れを意識した。その流れが彼の手にもなにかしらの力を放出してくるようだった。なおもゆっくり歩いていくとアカマツがあった。よく見ると、アカマツも緑の針葉の中に松かさと同じようなアイボリーの雄花と雌花をつけている。沢木はその雄花を手に取り、一つ一つの突起に触れた。よく見るとその象牙のような突起は精緻に刻まれた彫刻のようである。同じ木にあるいくつかの雄花を見比べても一つとして同じものはなかった。形状は少し細長いものや丸みを帯びたものなど様々であった。アイボリーの色にも濃淡があり、触った時の湿り具合も一つ一つが異なっていた。沢木はこの二、三日の合宿での生徒たちのことを思い出した。彼らが本来もっているであろうそれぞれの突起のようなものを少しでも垣間見ることができればという思いはついに実現されることがなかった。沢木はこれから先、あの学校で自分がどう振舞っていったらいいのかと茫漠とした不安な思いに包まれながら雑木林の中を歩いていた。

 

  次回に続きます