樹 第9回


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秋になっていた。 空を見上げると雲は夏の入道雲から秋の鰯雲やスジ雲に変っている 。この雲も時々刻々と変化し、 空は見上げるたびにその表情を変える。 秋空の青は透明でなにかしらの悲しみを感じさせると侑子は感じて いた。彼女は街の南東にある丘陵地の緑地を歩いていた。 そろそろ北から渡り鳥も顔を見せる頃だった。 ハンノキ池と名付けられた池の周りにはやはりその名の通り、 ハンノキやサクラ、アカメガシワなどが生えている。 新緑の頃に比べれば盛夏の厳しい夏をくぐり抜けることによって今 はもう木々の葉もだいぶ疲れを見せ色褪せている。

サクラの枝を眺めていると、 そこにコサメビタキがいるのに気付いた。 黒い目がくるっとしてなんとも愛らしい鳥である。 キビタキと同じヒタキ科の鳥で、 総じてこの仲間はみな目が可愛い。侑子はカメラを構えたが、 次々と茂みの中に隠れたり、 枝の間を飛び回ったりでなかなか捉えることはできなかった。 そのとき、 ふと北原白秋コサメビタキを詩に詠んでいたことを思い出した。 彼女は白秋の詩の幾つかを諳んじることができた。以前、 この詩を彼の詩集の中に偶然見つけた時には心が躍った。 彼もこの小さな鳥を大切に想っていたのだという驚きにも似た気持 ちがあったのである。

 

色はあり、声にのみ、

こさめひたき、雫のみこまかなる

この朝あけ

 

花はあり、影にのみ

ひとりしづか、

香のみ寂びたもつ

杉よ檜よ

 

朝のまだ明けやらぬ靄がかかっているなかに、 コサメビタキのいる気配を感じる、鳴く声のみで姿は見えないが。 しばらくすると太陽の光が一筋差しこみ、 朝が明けはじめるといった光景であろうか。彼女は「色はあり」 と始めるところに白秋の細やかな感覚を感じた。「 色にいでにけり」 と歌に詠まれているこの色という言葉は日本語のもつ繊細なニュア ンスを言い表す言葉のひとつである。 この詩を写真で表現することはできるのだろうか。 絵に描くことは。 いつか何らかの手段をもってこの世界を表現してみたいという思い が湧いてくるのを感じた。侑子はあらためて「色はあり、 声にのみ」と声に出し、 文語体の心地よいリズムを満喫するのであった。

 

  次回に続きます