樹 第28回


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早川からの手紙が届いたのはそれから半年後のことである。 突然約束を守ることなく姿を消したことについてまず初めに謝って いた。そして妻があの日心筋梗塞で倒れたこと、 集中治療室に付き添っていたため連絡ができなかったことを詫びて いた。一命をとりとめたものの、 通常の生活を取りもどすためにはずいぶん時間がかかることと身体的な援助のみではなく精神的な支えが必要なためアトリエは止める ことにした旨が綴られていた。

 

今まで話すことはなかったけれど、 実は僕たち家族は一つの大きな未解決の問題を抱えていた。 それは娘がカルト集団に入信し、隣国に行ってしまったことだ。 娘とは心から通じ合うということはもうできなくなってしまった。 彼女は自分の心を他人に売り渡してしまったとしか考えられなかっ た。 なぜこのようなことになってしまったのかを夫婦でいくら話し合っ てもわからなかった。 娘は手触りのない何かツルンとした無機質な物体になってしまった ような気がした。 語りかけてもその言葉が届いている感触を掴めなかった。 日本を出て行ってからは次第に大きな喪失感に捉えられるようにな り、 僕たちはこの降って湧いたまるで事故のような出来事を話題にする ことが疎ましくさえなっていた。 忘れた振りをすることでなんとか日々を送ってきたと言える。 しかしながら、 しばらくして娘がむこうで結婚してできた子供を伴って帰国するた びにその喪失感を再認識させられ、 せっかく塞がったと思われていた傷口はその都度またむりやりこじ 開けられ傷口はより深くなっていった。そして次第に化膿し、 膿が噴出するようになり、それは我々二人の日常を浸潤し、 悪臭を放つようになっていた。お互いの顔のなかに、 まるで自分の腐りかけた心の内を見ているような気持ちに襲われて 恐怖さえ覚えるようになった。 その恐怖を克服しようとして僕たち二人はお互いに相手を憎むよう になっていった。 家の中はまるで地獄の様相を帯びてきたといえる。 僕がカラタチの絵を描いていたことを覚えているだろうか。 あれはその頃のどうしようもない家族の関係を反映していたのかも しれない。 散歩の途中でカラタチの生垣を見たときはその棘の絡まる様子に自 分の心を重ねた。 カラタチが以前からの親しい友人のような親近感さえ覚えた。 妻に向かって噴き出していた憎しみをなんとか軌道修正しなければ 自分がなにをしでかすか分らないというところまで追い込まれてい たのだ。 カラタチを描くことでその憎しみに水路を与え放流させようとした ということなのかと今にして思う。 そして憎しみの奔流に押し流されそうになっていた僕が掴もうとし た藁が侑子,君だと言ったら、君は怒るだろうか。 私を利用しようとしたのかと。 結果から言えばそうだとしか言えないのかもしれない。 けれども言い訳に聞こえるかもしれないが、 君を好きであったことは紛れもない事実だ。 君があの演習林のなかで苔の上に横になって、 地面の匂いを嗅いだり、樹木の幹に頬を寄せていた時、 僕はその苔になりたい、 樹木になりたいと心から切望したことにごまかしはなかったという ことは信じて欲しい。

けれども妻に保護が必要になってしまった今、 この人を放置することはできないのだという思いが次第に強くなっ ている。 自分たち家族の問題に君を引きずり込んでしまったことを謝罪しな くてはと思っている。君はなんと言うだろうか、 やはり私を利用したのかと言うのかもしれないね。 そう言われてもただ頭を垂れるのみだ。済まなかった。 僕はあのアトリエを止めることにした。 そうしないとたぶん僕はいつまでも君を自分の傍らに留めてしまい たくなるであろうから。 そのようなことになれば君から軽蔑される日が遠くないことであろ う。君から軽蔑されることだけはなんとか避けなければならない。 そうしないとあの煌めくような日々も色褪せた鉛のようなものに変 質してしまい、 そこにまた新たな憎しみが生まれてくることを懼れるのだ。 身勝手な申し出だということはよくわかっているが、 再度憎しみが迸ることになることに出会う勇気はもう僕にはないの だ。

 

  次回に続きます