わが友、第5福竜丸


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燐光群の演劇「わが友、第五福竜丸」を観た。 劇場に足を運んで演劇を観たのは本当に久しぶりであった。 現代の喫緊の課題である核を巡る問題、 それと深く繋がる第五福竜丸事件という重いテーマを演劇という芸 術がどのように表現するのかという点に大きな興味があった。

劇の冒頭のシーンはモービル・ディックという名の喫茶店に、 謎めいた盲目の女性が現れ、店にある舵輪の由来を尋ね、 それを自らの手で操作しようと試みるところから始まる。 アメリカの小説家ハーマン・メルヴィルの長編小説『白鯨』 に出てくる白いマッコウクジラの綽名を冠したこの喫茶店はこれか ら始まるこの物語が、 海を舞台に繰り広げられる人間と自然の壮大なドラマであることを 暗示する。 そしてここに第五福竜丸の乗組員の最後の生き残りであった大石又七さんの作った船の忠実な模型の舵輪が存在することが何を意味す るのか、この問いが私たち観客に投げかけられ、 これから始まる劇に対する期待を膨らませる。

幾つかの暗転を繰り返しながら舞台は回転していく。被爆後、第五福竜丸が人々の記憶から忘れ去られ、 東京の夢の島に廃船として打ち捨てられていたところを市民の保存 運動の結果、 その夢の島第五福竜丸展示館が建設されたことの経緯が観客にも たらされる。そして忘れられた多くの記憶を掘り起こしながら舞台は進む。 若き科学者22人のグループが俊骨鳥丸という名の放射能探査船に 同乗して調査を進め、 放射性物質食物連鎖によってマグロの体内に蓄積していることを 実証したこと、当時の856隻にも及ぶ遠洋マグロ漁船の乗組員の 被ばくの実態はいまだ不明であること、被爆した彼らはほとんどが言われない差別に苦しみ沈黙を強いられたことなどが、 俳優たちの発する夥しい数のセリフによって語られていく。

彼らの声と体は鍛錬されたもので力強かった。 矢継ぎ早に繰り出される半ば解説的、説明的なセリフは人間の肉体から発せられたものではあるが、 初めはなにかしら拡声器を通して語られる無機的な響きのようで微かな違和感があった。しかし、 その奔流のようなセリフの洪水の中に身を置いていくうちに、 次第にそのセリフの数々が劇中の印象深い幾つかのシーンの理解と 深く繋がっていることを実感するに至った。

舞台はこのような幾つかの忘れられた記憶を私たちに再び蘇らせて いく。そして展示館の第五福竜丸が突然姿を消してしまったことが告げら れる。一体なぜ、そしてどこへ?舞台は暗転した。

再び明るくなった舞台上に、今、私たちが生き、 生活している時代に第五福竜丸は忽然と姿を現す。 そして私たちの今の現実も放射能の恐怖から自由になってはいない どころか市民の日常の生活の中に音もなく忍び寄り、 多くの人を脅かしていることを俳優たちの畳みかけるような大量な セリフが報告する。 そのセリフは核の平和利用と言いながら福島をはじめ世界の様々な 地域で汚染のため故郷を追われる人びとが出ている現実、 それからの出口が見えず、多くの科学者が沈黙している中で、 第五福竜丸の存在を思い出すことが私たちの希望に繋がることも示 唆する。

そして劇は最後の被爆時を再現した群像劇で終焉に向かう。 総トン数僅か140トンの木造船が23名の乗組員を乗せて航海中 に、 アメリカがマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇し 多量の放射性降下物を浴びた。 その第五福竜丸の乗組員が遭遇する被爆の場面、彼らは当初、 なにがおこっているのかを理解できなかった。 しかし普段と明らかに異なる海と大気の様子にただならぬものを感 じ取り、それがついには水爆実験であることを知る。 彼らが異変を水爆実験であったと知った時の恐怖と驚愕、 救援を求めれば国家という大きな権力(それがアメリカであれ日本 であれ)が彼らを抹殺するであろうことを彼らは本能的に察知した 。巨大な漁場を目前にしながら空手で去らなければならない無念、 それらの動揺や感情のさまざまな揺らぎが役者の肉体を通して観客 にもたらされた。 それは演劇表現の可能性を大きく感じさせるものである。

この最後のシーンと同じく印象的なのは、 被爆した高知の漁師が自分の娘を放射能由来と思われる原因不明の 病で亡くし、 孫娘になぜ被爆の事実を公にしなかったのかを問われて苦悶する姿 である。 第五福竜丸以外の被爆した多くの漁船の乗組員には補償金が払われ なかったなかで高知の漁民たちが勇気をもって訴訟に踏み出すとい う事実も併せて提示される。 人々の人間的な葛藤が俳優の体を通して表現されるとき、 それが私たちの理解を頭だけのものにせず、直接、 感情に訴えかけて魂を震わせる。

この劇は私たちがいのちをつなぐために身を挺して大海原に漕ぎ出 していった人々がいたことを忘却のなかから掘り起こして私たちの 記憶を新たにした。 そして最近私が知ったまた別の事実は歴史を見る目を複眼的にする。 それは占領軍の総司令官であったマッカーサーが日本人のたんぱく 質不足を解消するためにアメリカ海軍のタンカー2隻を捕鯨船に改 造することを許可し、 日本人を南氷洋捕鯨に従事させることで戦後の日本人の飢えを救 うことに寄与したことである。

そして劇は、生きんがために人間は海に漕ぎ出したが、 その海が今人間の行動により核物質をはじめ様々な大きな汚染に晒 されていることに私たちの想像力を運んでいく。 海を人間がこのようにして汚していいものかと重く問いかける。

芸術はプロパガンダではない。 演劇の言葉はプロパガンダであってはならない。演劇は私たちに、 混沌とした現実を読み取る新しい視点を提供してくれるものではあ るが、あくまで観客の主体的判断が尊重されるものである。核を巡る問題を演劇で扱うことは非常に繊細で難しいということは 容易に想像できる。 あの事実についての夥しい解説と説明のセリフは、 劇中で繰り広げられる人間の営みの描写をより際立たせるための重 要な道具立ての一つであった。 白鯨のエブラハム船長のように海に果敢に挑戦していった人々がい たこと、 私たちはこのような人々のプライドと勇気のおかげで命を繋いでき たという事実の再確認、 そして核がその命の連環を根本的なところで破壊するということか ら到底容認することはできないという思い、 そういう様々なことを喚起させられた。

 

劇場に何故足を運ぶか、 単なる情報を得るためになら書物などの媒体のほうが圧倒的に合理 的で効果的であることは疑う余地のないところである。 これに対して演劇は人間の肉体、とりわけ言葉も人間の声、表情、 体の動きを通しての表現であることから、 そこには書物とは異なる感覚的、 直覚的な対象に対する理解がある。 最後の乗組員の被ばく場面では海の吼えるような波音が轟いていた 。 海は人間の犯しているこのような蛮行を許してはくれないだろうと いう懼れ、 自然を冒涜することの恐ろしさをまざまざと感じさせる幕切れであ った。